2020年12月13日日曜日

カリキュラム

一対一の個人教授が主たる稽古形態になってしまった等持院稽古場にカリキュラムのようなものは特に存在しない。同じ時期に稽古をはじめる人が複数いたとしても、なにを入り口にするかはその人による。身体教育研究所として、基礎と呼ぶべき事柄、稽古はあるから、最終的には、坐法・臥法といったものは教えることになるけれど、それを必ずしも出発点としているわけではない。三年くらいかけて、ひとりひとりが、ぼくらが基礎としているものにたどり着けばよいくらいに考えている。

いろんなカリキュラムをつくることはできるだろうし、あらかじめシラバスのような形で提示してあげた方が、学びに来るひとたちにとっては親切な場合もある。どこかで書いたと思うのだが、皆が身体というものと一緒に日々暮らしているわけだから、ぼくらの稽古、というか整体は、老若男女、すべての職業人に向けて有効であるし、ある特定のひとたちを対象としたカリキュラムをつくりだすことも可能だ。

昔々、どこかにカリキュラム案をつくったことがあるなと、パソコンの奥をゴソゴソしていたら、出てきました。なんと2002年。対象は二十歳前後の学生で、中味も動法を中心に据えたものだけあって、ちょっと堅苦しい。いまなら、日本文化云々を全面に出すことはためらわれるし、表現も、もう少しソフトなものになるだろうな、とは思う。「蔵出し」として、このブログに挙げておいたので、興味のある方はどうぞ。

「動法」 ー 異文化としての日本的身体技法

2020年12月10日木曜日

忘れてもいいように

片桐ユズルさんの『忘れてもいいように』(アレキサンダー・アライアンス・ジャパン編)が刊行された。私も時々参加させてもらっている「片桐ユズルにきく」の膨大な音源をもとに、若い参加者/編集者が中尾ハジメさんの協力を得て一冊の本に編んでいった。ユズル史でありながら、自分史と照応し、そして、ここ半世紀の時代の空気の変化を片桐ユズルという「輸入業者」を媒介として上手く掬いあげている。近々、等持院稽古場にも置かせてもらう予定です。3千円+税。




2020年11月30日月曜日

11月の読書

 手の倫理 伊藤亜紗 講談社新書メチエ 2020

たしかに今月は本あまり読んでないと思ったけれど、一冊だけとは。でも、この本はおすすめです。

来月のこの欄に載る予定の本たち



2020年11月24日火曜日

やまがあるいたよ

千葉に通うようになって、絵本を毎晩のように読む
これを繰り返しているうちに絵本に目覚めてしまった
どれもこれも、SFっぽくて、シュールで、スケールがでかい
なかでも、長新太の「やまがあるいたよ」のスケール感には唸った

今日、5年前に編んだ父の遺句集をパラパラとめくっていたら、
寝返りをうって見せぬか眠る山 (昧波)
という句が目に飛びこんできた
なんと、山に寝返りを打たそうとしているではないか

絵本と俳句
意外な共通点があった

2020年11月21日土曜日

亀岡散歩

今シーズンのうちにサンガスタジアムに足を運ぼうと思っていた。新たに建設された京都サンガFCのホームである。京都サンガの試合は何度か西京極で見ているのだが、J1を狙う力はまだないようだった。いかんせん、ピッチが競技用トラックに囲まれた環境でサッカー観戦というのは興醒めである。今年の京都は、李忠成やピーター・ウタカといった実力派の補強があったから、ひょっとしてと期待したが、結局中位に沈んでいる。来季、湘南ベルマーレの監督をしていた曹貴裁(チョウ・キジェ)を招請というニュースがネットに出ていた。期待できそうだ。対戦相手は徳島。J2 の首位を走っている。おそらく来シーズンはJ1に舞台を移すことになる。若いスペイン人監督は、いったいどんなサッカーをみせてくれるのだろう。ピッチは近いし、お天気は良いし(ちょっと風は冷たい)、あったかいチャイは作ってきたし、いうことなし。練習風景を見ながら14時のキックオフを待っている。

2020年11月20日金曜日

自発の在処

今月の月刊全生に晴哉先生の活元相互運動についての講義が掲載されている。活元運動、相互運動を追求していく過程で発見したことのひとつに、僕らが自発性と呼んでいるものは、自分の内部からの動きではなく、むしろ他所から、外からやってくるものなのではないのかというものがある。出発点を他者、環境と響き合う存在として人間を捉えているのであれば、自発性を中からの動きと呼んでいっこうに構わないのだけれど、近代人たる我々は、この身体を一個の独立した存在とみなしているので、あえて、「自発性とは他者の欲求を動くことである」と言い換えている。 

これまでの活元運動の理解、イメージは、体の奥に生まれた小さな動きが、だんだんと全身的なものに発展していくというものだ。現象的にも体験的にもこの図式は間違ってはいない。この最初の動きのことを自発性と呼ぶ、そのように理解する。しかし、相互運動になると、少し様相が変わってくる。相互運動の原型は活元操法にある。整体協会が社団法人化されたとき、治療を連想させる活元操法を両者坐った形態で行う相互運動に切り替えたと、月刊全生に掲載された講義録(2018年11月号)の中でロイ先生が述べられていた。うつ伏せに寝ている人が坐った状態に移行したわけだ。外形的には、相互運動において後ろに座る人は働きかける人で、前に座る人(活元操法においてはうつ伏せに寝る人)が受けの人であるように見える。しかし、それって根本的な誤解ではなかったのか。

大井町でさんざんやった稽古に「活元運動以前」というものがある。活元運動を稽古化しようと準備運動を動法的、内観的にあれこれ追求していったものだ。そんななかで、従来の活元運動において軽視されていたものとしてふれるときのカタの問題にいきついた。カタに入るということは、自分の意志を極限まで希薄化することで、つまり、カタに入ってしまえば自分で自分の体を動かすことはできなくなる。つまり、止まった状態。そのような集注でひとにふれ、活元運動に入る。すると、動きの源は、自分ではなく、ふれている相手から伝わってくるものであることを体験することになる。活元操法とは、手が勝手に動いて相手の悪いところにふれていくことではなく、寝ているひとの運動欲求をふれている人が代わりに動いていくものであると考えたほうが腑に落ちるのだ。しかも、その方が、ひとりで行う活元運動よりも充足感が生まれる。他者の運動欲求を実現するには、自己完結的=習慣的動きを打ち破る方向に展開していくしかないのだから。

「だっこ」を再体験することで、自分の中で、うまく言語化しきれてなかったものが、すこしまとまった感がある。孫に感謝ですね。ここで一区切り。

2020年11月17日火曜日

Seitai as an Art of Living

だっこ」でつかった、「Seitai as an art of living」という表現に何人かから反応があったので補足。 

 面白いもので、日本語で表現するより、いったん英語にしたほうが、ストンと肚に落ちることがある。「生きる技としての整体」よりも「Seitai as an art of living」のほうが表現としてきれい。もっとも、この場合、最初に英語があって、それを翻訳した風がある。つまり、日本語としてこなれていない。おそらく、「技」という単語と「art」という単語のズレに起因しているのだろう。「技」がより緻密さに向かうのに比べ、artの方には、もう少しあそびがある。 

そんなことを考えているところに片桐ユズルさんがやってきたので、しばし翻訳談義。僕が、artという単語の不思議さに気づいたのは、E・フロムの「愛するということ」を読んだときのことだから、1970年代の前半にさかのぼる。原題が「The Art of Loving」と知ってへぇーと思った記憶がある。一方、ユズルさんが翻訳したいと思っているもののひとつに、A・ハクスリーの「The Art of Seeing」という本があって、むかしむかし、「眼科への挑戦-視力は回復する」というタイトルで邦訳出版されたことがあるとのこと。これでは、いかにもハウツー本と思われてしまう。もし、いま付けるとすると「ものの見方」くらいになってしまいそうだが、いささかインパクトに欠ける。やっぱり、カタカナで「アート・オブ・シーイング」かね〜、とユズルさん。

それはともかく、「生きるためには技がいる」といっても、みんなピンとこない。この技というものは、文化の中で伝承されてきたものであるはずなのに、文化なき民となってしまった僕らの世代のところで、その技は途切れてしまった。テクノロジーがartを駆逐した状態。子どもを育てるにも技がいる。ちゃんと死んでいくにも技がいる。日々の暮らしにも技がいる。野口晴哉の著作の中に、あるいは、僕らがやっている稽古の中には、生きるための技=artが溢れているではないか。僕らが身体教育を謳う所以である。

(追記 ワザとアートという二つの単語によって喚起されるイメージの違いって、結局、音韻的なちがいに遡ることになるのではなかろうか 11/24)