2021年12月19日日曜日

he said/she said argument 水掛論

There is a theory that the "Mizukake (水掛論)" comes from the Kyogen play "Mizukake Muko ,"  In English, the word "mizukake" is said to be "he said/she said argument”. It's quite obvious and understandable. The reason why people get into arguments is because they believe that they are right, and they believe that they can persuade the other person with their words.

In this respect, the theory of Taiheki (体癖論)is built on the premise that people cannot understand each other. The theory of Taiheki divides individuals shaped by the direction of their sensitivity into 10 types. People naturally judge things based on their own standards, and believe that these judgments are universal. It maybe true that if we don't believe that, it is difficult for us to survive. However, in the theory of Taiheki, ten standards are set. In other words, at its starting point, a standard or universality that can be shared by all of humanity are not set. It starts from the exact opposite, realism. Of course, before that, there is the basic premise that everyone is alive.

In the early days of Taiheki theory, it is said that people sometimes used animal metaphors to describe these types of people, such as a giraffe and a raccoon. The big question is whether giraffes and raccoons can understand each other. In fact, unless you go to a zoo, giraffes and raccoons, two different species, will never live together. However, humans live together as the same species. This is where it gets really tricky, but also really interesting.

There is a concept in biology called the Umwelt(
environment in English) proposed by a German bio-philosopher named Uexküll. he said that all animals live in a perceptual world that is unique to their species. That's right, each animal sees the world differently and lives in a different world. The theory of Taiheki is similar to this. The problem is that humans believe that we all live in the same world. Or we've been led to believe that we have to live according to a uniform standard that has been socially formed.

The most interesting part of Seitai theory lies in the pursuit of how these originally incomprehensible people can synchronize with each other and how they can overcome the world of Taiheki that confines them. The world of Seitai is about cultivating the ability to enjoy this discrepancy between oneself and others. Bothersome?
Be aware , we are living in bothersome world.

Why did I start thinking about this "Mizukake-ron"?
Because I am in the middle of it.

This is a translation of 「水掛論」https://dohokids.blogspot.com/2021/12/blog-post.html   
Translation was done with a help of DeepL https://www.deepl.com/translator.
Comments and feedback on this translation are welcome.

2021年12月9日木曜日

京都を動く(自転車編)

やっと晴れたので、洗濯物だけ干して、タバコ屋さんに向かうことにした。手巻きタバコにして随分になるが、手巻き用の葉っぱを売っている店は限られていて、もっぱら、北大路駅の近くのキシダというお店で買っている。距離にして4キロ、自転車で30分弱くらいか。京都で自転車に乗っていると、土地の勾配に敏感になる。急坂を登って、そこから降りていくか、だらだらとした坂道を登り降りしていくか。今日は急勾配ルートを選択。等持院から金閣寺までは登り坂。息切れしてくる。そこから北大路と西大路が繋がるところまで出る。千本通を越え、少し下ったところが今宮門前。普段ならそのまま下って、大徳寺を通り過ぎるのだけれど、今日は気分をかえて、今宮門前を左折し今宮神社方向に舵を取る。今宮神社前を右折して、あとは基本東に向かう。このあたりから比叡山がよく望める。大宮通を越え、堀川通も越える。北警察署前に出てしまったということは、少し北に行き過ぎているので、新町通にたどり着いたところで右折。タバコ屋さんで年が越せるよう普段より多めにタバコ、フィルター類を仕入れ、レジ横にいつも置いてある、フリーペーパーKemulierの新しい号をもらって店を出る。このKemulier、結構骨太の編集で、反喫煙全体主義に抵抗している。ついでにビブレにも寄っていこうと、進路をさらに東に取る。無印、ニトリをすこし覗いただけで、買物はとくにせず。いつもなら、ジュビターに寄ってジャムなどを求めるのだが、そういえば、最近ジャムの消費がぐんと減っている。

ここからは、ひたすら南下。ということは、ゆるい坂道を下っていくことなるので、走る距離はあまり気にならない。とりあえず堀川通に出ることにして、ジグザク、南に走り、西に走る。堀川通、御池通は車線も多く、京都の車交通網の幹線ともいえる道路だけれど、自転車にとっても同様で、歩道も広くとってあるので走りやすい。堀川通と今出川通が交わるところから堀川通の西側を走ることにした。晴明神社前を通り過ぎ、中立売通を越え、下立売通にさしかかったところで鳴海餅本店を発見。お赤飯で有名なお店なのだが、まだ買ったことがない。自転車をお店の前に停めて中に入る。お赤飯用に、いろんなサイズの空のプラ容器が置いてある。とりあえず、二人前お願いし、おはぎも、餡ときな粉一個づつ頼む。このあたりから南は屋根付きのアーケードになっていて、小さな商店が軒を連ねる。もうすこし探検してみるとおもしろそうだ。

小腹も空いてきたので、どこかでお昼でもと思いつつ、そのまま南下。二条城の前を通り過ぎ、三条商店街に入り口にたどり着いてしまう。この通りなら、入ったことのあるお店もあるし、どっか見つかるかもしれない。中華屋の前を通り過ぎ、大人のお子様ランチを提供する喫茶店の前も通り過ぎ、結局、お昼はあとまわしにして、三条商店街のアーケードの途中で南に折れることにする。壬生車庫あたりで千本通を越え、パン屋さんに向かう。今年の夏くらいに知った、美味しいライ麦パンを作っているお店、キートス。夏以来、この店以外でパンは買ってない。アンパンマンに出てくるジャムおじさんそっくりの爺さんがひとりでやっている。ライ麦パン二種類と全粒粉パンを買う。品揃えが良いとはいえないけれど、美味しい。さて、時計をみるともう13時過ぎ。さて、お昼はどうしよう。ちょっと、逆コースになるけれど、一度入ってみたかったチロルを目指すことにする。入ってみると、普通の昭和の喫茶店。京都にはこういう喫茶店がけっこう残っている。有名らしい、たまごサンドかカレーか、迷ったあげく、ハヤシライスにする。京都でタマゴサンドというと、大概、厚手の卵焼きをはさんだものが出てくる。京都駅から東京や北陸にでかけるとき、志津屋でタマゴサンドかカツサンド、あるいは、そのミックスを車中に持ち込むのが定番というか儀式のようになっている。

この週末の東京遠征の切符を買っておこうと、花園駅を目指す。ジパング倶楽部の手帳で切符を買おうとすると、みどりの窓口に行くしかない。ところが、どんどん、そのみどりの窓口がなくなって、窓口の代わりに通信端末が置いてあったりする。どうも気に入らないので有人のみどりの窓口を目指すことになる。花園駅には有人のみどりの窓口があるので、京都駅でなければ、花園駅を利用することが多い。ただ、同じように感じている利用者も多いのか、駅に着いた時点で前二人並んでいる。去年の4月以来、月一以上のペースで東京千葉に通っているので、新幹線の混み具合が、このところ、コロナ前に戻りつつあることを実感している。今回は指定席を取ることにした。これまでだと、自由席を使っていたのだけれど、ぼちぼち、あらかじめ指定席を取っておいた方が、余分な心配せずに移動できそう。みどりの窓口を減らすのであれば、もう少し、ジパング倶楽部のネット対応に注力してほしいものだ。

さて、お天気も良かったし、ぼちぼち洗濯物も乾いているころだ。家に帰って、16時からの稽古に備えることにしよう。本日の走行距離18キロ。ずいぶん走ったものだ。普段の生活圏をすべて網羅した感じ。だいたい、この範囲、4キロ四方で僕の生活は完結している。

2021年12月6日月曜日

源氏物語読み合わせの会

「 源氏物語読み合わせの会」等持院稽古場で行うことになりました。
源氏物語を、参加者それぞれが順番に声に出して読んでみる、それを傍らで聴いてみる、そういう会になります。「桐壷」を読みますので、テキストをお持ちの方はご用意ください。テキストが必要な方は実費で用意します。参加を希望される方は、事前にご予約ください。
どなたでも(整体協会会員でなくとも)参加できます。覚張幸子さんは、ジャズユニット「風狂知音」のボーカル。身体教育研究所では気韻の稽古を複数の稽古場で開催しています。

 日時 12月18日(土) 13時〜15時
 会場 等持院稽古場
 会費 千円+会場費かんぱ
 担当 覚張幸子  → 覚張さんと一緒に稽古する

2021年12月4日土曜日

水掛論

 水掛論という言葉が狂言の「水掛聟(みずかけむこ)」に由来するという説があるらしいけれど、どうだろう。英語で水掛論をどう表現するのかというと「he said/she said argumentと言うらしい。まったく、身も蓋もないというか、実によくわかる。そもそもなんで水掛論になるかというと、それぞれが自分が正しいと思っているからで、しかも、言葉で相手を説得できると信じている。

この点、体癖論は、人と人は理解し合えないという前提で組み立てられている。体癖論というのは感受性の方向によって形づくられた個人を10種に分けたものである。人間は当然のことだけど、自分を標準に物事を判断するし、その判断が普遍的なものだと信じている。たしかに、そう思えないと人間生きていけない。ところが、体癖論ではその標準を10本設定している。言い換えれば、人類全部で共有できる標準とか普遍性を出発点としていない。真逆のリアリズムから出発している。もちろんその前に、みんな生きているという大前提があるのだけれど。


体癖論が形成されていく最初期、この類型を、あの人はキリン型とか、あの人はアライグマ型とか動物に喩えたこともあったらしい。キリンとアライグマはお互いに理解しあえるか、という大問題。実際のところ、動物園にでも行かない限り、キリンとアライグマという異種が同居することはない。ところが、人間は同じ種として同居している。ここが実に厄介なところでもあり、また面白いところでもある。


環世界という考え方が生物学にある。ユクスキュルという生物哲学者が提唱したもので、「すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きている」というものらしい。それはそうだ、動物ごとに見えている世界は違い、生きている世界も違うだろう。体癖論もこれに近い。問題は、人間の方は、みんな同じ世界に生きていると信じている。あるいは社会的に形成された一律の標準に沿って生きなければいけないと信じ込まされてる。


整体論の醍醐味は、この、もともと理解不能な人間同士が、どのように同調し得るのか、どのように自らを閉じ込めている体癖世界を乗り越えられるかを追求しているところにある。この自他のズレ〜ズレというには大きすぎたり、時間的に隔絶しすぎたりするのだけれど〜を愉しむ能力を育てようというのが整体の世界なのです。ある意味面倒くさい世界。でも、面倒くさいなんて言ってたら生きていけない。


なぜ、水掛論について考えはじめたのか?

日々悩まされているからです。

2021年11月30日火曜日

11月の読書

源氏物語1* 有朋堂書店 1927
見知らぬ島への扉* ジョゼ・サラマーゴ アーティストハウス 2001
縁食論* 藤原辰史 ミシマ社 2020
アフター・カルチュラル・スタディーズ* 吉見俊哉 青土社 2019
水族* 星野智幸 岩波書店 2009
江戸という幻景* 渡辺京二 弦書房 2004

2021年11月26日金曜日

ネット記事から

 娘から教えてもらったネット記事。
ひさしぶりに爽やかな文章を読んだ。
整体の技術を学ばなかった者の「強み」が、インタビュアーの問題意識とうまくシンクロして引き出されている。成長病と僕らが呼んでいるウイルス由来の病気は、ワクチン接種の広まりによって罹患する機会が減っている。そんな時代に、人間はどのように成長していけるのだろうと考えていたのだけれど、「ワクチンすらも利用して、今の時代に則した体育のあり方を考えることができるかもしれない」(後編)という次世代の言葉はたくましい。「なんだか野口晴哉を身体のアナキストとでも呼びたくなってきました(笑)」というインタビュアーのセンスも素晴らしい。

2021年11月22日月曜日

源氏物語

源氏物語は読んだことがない。
来月、「源氏物語読み合わせの会」というのを覚張さんがやるのというで、あわててテキストを探しはじめた。読むのであれば、旧仮名のものがよいだろう。覚張さんに訊いてみると、「私は古本屋で見つけた大正時代に出版されたものを拡大コピーして使っている」とのこと。国立国会図書館のデジタルアーカイブを探ってみると、出てくるは出てくるは。一種類ダウンロードして印刷してみた。次に京都市図書館のデータベースを当たり、出版年が古そうで、かつ貸出可能なものを探し、予約したら、有朋堂書店大正15年発行の「源氏物語1」が早速届いた。大正15年というと1926年、つまり95年前に刊行されたものだけれど、すこぶる状態はよい。つくりもしっかりしている。当時の活字文化のレベルの高さがわかる。古典を声に出して読んでみる、聴いてみる。これは興味深い体験ができそうだ。関心のある方は是非。