2012年12月29日土曜日

連座

 この春、専業主夫をやりながら、どう稽古復帰するか思案していた頃、Sさんから、「僕のやってる集団稽古に来ませんか」との誘いを受けた。連句めいた、あるいはお茶席のような稽古をやっているという話だけは聞いていたのだが、参加したことはなかった。四人一組で、ひとりが伏臥し、他の人は内観しながら、順番に気になったところに触れていく。たったこれだけ。

 ところが、この稽古を通して出会った「受け身の参加感覚」によって僕の整体観はひっくり返されてしまう。それくらいのカルチャーショック。同じ俯せの体勢とはいえ、操法を受けるときに出現する感覚とは別物なのだ。と同時に、「操法者」という存在の意味をはじめて理解した。だから、「稽古場でやろうとしてきたことのひとつの到達点」と表現した。

 連句に引きつけると、俯せに寝る人が「発句」の人で、最初に手を当てる人は「脇」を付ける人なのではないか。僕はこんな風に理解した。そうして、人が入れ替わるごと、世界が展開していき、やがて終わりがやってくる。この時には、まだ、この稽古法に名前はなく、「連座」と名付けられたのは、もう少し後のことではなかったか。連座という言葉から連想されるのは「連座責任」とか必ずしもよいものではない。それでも、何度か、この稽古に参加してみて、やはり「連座」だなと思う。

 先日、連座を言葉にするとどうなりますかとSさんに訊いてみた。このときの会話をヒントに自分でも連座の稽古をやってみることにした。中断していた連句の勉強も再開することにしようか。