2024年7月9日火曜日

夕立が通り過ぎたので庭に出てみた。
ゴキブリ風の生きものがもぞもぞ動いている。
にしては、動きがとろい。
蝉の幼虫だった。
蝉の抜け殻はしょっちゅう見つけるが、歩いている姿を目撃したのは初めてだ。
のそのそと簾を登りはじめ途中で止まった。

数時間後、もう一度様子をみたら、なんと脱皮を終えて、羽を伸ばしているところ。
脱皮の瞬間を見られなかったのは残念だが、しばらくその姿に見とれていた。
それにしても無防備。
無事飛び立っていくことを祈るのみ。

蝉は明け方まで同じ場所にいた。一晩かけて透明な羽根ををアブラゼミ特有の茶色に変え、ちょっと目を離している間に姿を消した






2024年7月8日月曜日

AI翻訳

このところ、英語でEメールを書く機会が増えてきた。
自分の英語のチェックのためにDeepLなどの世話になっているのだけれど、その有能ぶりに舌を巻くと同時に薄気味悪さも感じている。英文を書いて、左側の窓にコピペすると、さっとブラッシュアップされた英文が右の窓に表示される。たしかに、より自然な言い回しだなと納得することが多い。ネイティブにチェックしてもらっている感じではあるのだけれど、自分の実力以上の文章が出現してちょっと戸惑ってしまう。ほんとうにこれでよいのか。

文章のこなれ具合というのは、音読であろうが黙読であろうが、声にして読んでみて、体に馴染むものを選択しているはずなのに、その身体性なしに滑らかさがやってくるのが腑に落ちないというか、薄ら寒い。もちろん、校正された文章をチェックするのは人間だ。時には誤訳もある。多少の読解力のある英語なら、どの程度正確に翻訳されているかチェックできるが、もし自分の知らない言語でこれをやった場合、その翻訳が正しいかどうかを判断する術がない。逆方向に翻訳したり、違う言語を介在させたりしたとして、正確性は担保されうるのだろうか。軽薄な相互理解という幻想と、修復不能な行き違いが起こる気がしてならない。

この便利さによって、僕らは何を失ってしまうのだろうか。
困った時代になってしまった。

検索窓、翻訳窓に文字を入力し、リターンキーを押すたびに、彼我のコンピュータは発熱し、冷却ファンがゴーゴーと低い音を立てて回る。

2024年7月5日金曜日

反穀物の人類史

「ゾミア 」の著者であるJCスコットの「反穀物の人類史」(みすず書房 2019)を読んでいる。なぜ人類は穀物を栽培し定住を始めたのか? 狩猟採集の時代から周辺の環境を変形させながら人類は定住に近い様式で生活を営んできた。その後現れる穀物依存の生活より栄養的には多様性が豊かで豊潤だったのにもかかわらずだ。

穀物育てる労働集約型の生活は人口の密度を高め家畜化された動物の密度を高め、結果、疫病の蔓延を許した。なのにどうして穀物なのか。税金として取り立てやすいのが麦米トウモロコシといった穀物だった故に、時の権力者たちは住民を定住させようとした。定住地から逃亡する者も多かった。人口の減少を食い止めるため戦争をした。奴隷を獲得するためである。国家に寄り添うように、あたかも文明が農耕とともに「進化」してきたように語られてきた定説を覆す一冊。そう人類はは税金取りを養うために定住させられたのだ。

高野秀行 はこの本を読んだ上で「イラク水滸伝」を書いたのか、すごく気になる。なんせ舞台は古代文明が生まれたイラク南部の湿地帯なのだ。時代区分でいえば縄文期 と重なる。おーい、だれかJCスコットに縄文時代のことを教えてやってくれ。





2024年7月1日月曜日

分裂を引き受ける

整体協会はその出自からして反西洋文明的、前近代的存在といえる。
とはいえ、だれしも現代を生きているわけで、近代と前近代、西洋文明的と反西洋文明的なるものとの分裂の中で生きざるをえない。文明的なものとは、強迫症的な病に囚われてしまうということで、このあたりの構造はイリイチが警告とともに書いてきたことでもある。今の時代、文明的なるものに呑み込まれることなく正気を保つためには、分裂を引き受ける覚悟を持ち、分裂の狭間で生きる技を身につけていくしかない。おそらく、整体協会、あるいは身体教育研究所に存在意義があるとすれば、その正気を保つ技を発見継承させていくことだろう。言い換えれば、国を問わず、正気であろうとする人たちは一定数(少数派かもしれないが)存在しているが故に、もし十人の人間が、この道で生きる覚悟さえ持てば、僕らの道は、たとえそれが細々としたものであっても続いていくだろう。

2024年6月29日土曜日

6月の読書

超人ナイチンゲール* 栗原康 医学書院 2023
 憑依系の書き手であるアナキスト#栗原康が、神秘主義者ナイチンゲールに憑依して出来上がった一冊が#超人ナイチンゲール 。舞台は19世紀のイギリス。この組み合わせを思いついた#ケアをひらく シリーズを立ち上げた#白石正明 という編集者はすごい。このシリーズ、三分の一くらい読んでいるけど、どれもおもしろい。

増補・近代の呪い* 渡辺京二 平凡社ライブラリー 2023
 初版は2013年で、この増補版には、2014年にスタジオジブリで行われたインタビュー「近代のめぐみ」が追加で収められている。渡辺さんの名著「逝きし世の面影に記録されいる外国人の眼を通して捉えられた江戸庶民の「幸福感」は、明治政府の自己正当化のもとで無視され、戦後のマルクス主義的歴史観においても無視されてきた。そのような歴史観への抵抗(という言葉は使ってないけど)であった。僕らがやってる身体教育と呼んでいるものも、前近代あるいは近世を生きた庶民の身体を追体験することで、国民国家的身体、消費社会的身体に抗おうとする試みなのかもしれない。

「日本語」の文学が生まれた場所* 黒川創 図書出版みぎわ 2023
 黒川創の『「日本語」の文学が生まれた場所』を読み進めていくうちに、著者の視点が形成されてきた水源に「思想の科学」があることを知り腑に落ちるものがあった。男たちが漢文から口語文への移行に四苦八苦していた時期、鷗外の妻、森シゲは、軽々と言文一致の世界に入っていったなどという逸話は興味深い。漢文世界から口語文世界へ、日本のみならず、朝鮮、中国、台湾でも同様の試みが、相互に影響を与えながら〜人の行き来も多かったわけだ〜行われていたのだ。

地図と拳* 小川哲 集英社 2022
 600頁を超える長編、#地図と拳 読了。人工国家であった満州国を描くのに「建築」「地図」といった工学の知見を織り込むことで、虚構国家がリアルに立ち上がってくる。直木賞作品だった。

教えないスキル* 佐伯夕利子 小学館新書 2021
神田ごくら町職人ばなし 坂上暁仁 サイド社 2023

2024年6月28日金曜日

コンヴィヴィアリティのための道具

 Your夜学「からだを失くした現代人のための身体教育論」の最後にイリイチの「コンヴィヴィアリティ」という言葉が出てきて自分でも驚いた。そのくせ「コンヴィヴィアリティのための道具」(ちくま学芸文庫 2015)をまだ読んでなかったので、これはいかんだろうと本屋に走った。もともとは1989年、日本エディタースクールから出版されている。訳者の渡辺京二さん、「コンヴィヴィアル」に「自立共生的」という言葉を充てている。コンヴィヴィアルとかヴァナキュラーとか、イリイチの使う単語は日本語に置き換えづらい。

 それにしても50年たって、またイリイチかよ、という感は否めない。僕のことを「イリイチ本を訳した人」と思っている人が、たまにいて面食らうのだけれど、まったくの誤解です。1980年に野草社という出版社から「対話」という本が出て、その翻訳者の一人として僕の名前が出ていて、しかも、なぜか一番目にクレジットされていて、それがいまでも検索エンジンで引っかかってくるせいなのだけれど、大いなる誤解で、自分的には「黒歴史」。渡辺京二訳ののコンヴィヴィアリティ本のあとがきに「わけもわからない訳本をだすのはよくよく罪深い行為なのだ」と書かれてあって、思わず身をすくめた。

とはいえ、1973年以来、断続的ではあるけれどイリイチは読んできた。
これまでイリイチがどのように紹介されてきたのか、Wikipediaで著作の英語版と日本語版の発行年を調べてみた。どうやら1970年の後半あたりから注目されるようになってきたことがわかる。イリイチがメキシコのクエルナヴァカに設立したCIDOC(Centro Intercultural de Documentación)で活動していた時期(1965-76)から10年後ということになる。日本にどのような経路でイリイチの思想が入ってきたか、よくわからない。日本の知識人って、結局ただの輸入業者だから、案外、フランス経由という可能性もある。

1971 / 1985 Celebration of Awareness
1971 / 1977 Deschooling Society 脱学校化社会
1973 / 1989 Tools for Conviviality コンヴィヴィアリティのための道具
1974 / 1979 Energy and Equity エネルギーと公正
1975 / 1979 Medical Nemesis 脱病院化社会

1981 / 1982 ShadowWorks シャドウワーク
1982 / 1984 Gender  ジェンダー

僕などは、初期の著作に触れていた程度で、2000年代に入って藤原書店からイリイチの本が出版されるまでの20年間、イリイチとは疎遠だった。なので、1980年代、エコフェミ論争なんてものがあったことさえ最近になるまで知らなかった。しらなくてよかった〜。

今年の春、本棚を整理していて、もうこの先、イチイチを読むこともないだろうと、藤原書店から出ていた三冊の本も手離した。なので、え、またイリイチ、いったいこの半世紀、自分たちはなにをしていたんだろと思ってしまうのだ。
 








 


2024年6月21日金曜日

夜学終了ー世界史の中で「整体」を考える

三回に渡って行われたYour夜学「からだを失くした現代人のための身体教育論」無事終了。結局、からだを失くした人は現れずー考えてみれば当然のことで、このタイトルに反応する人は、自分が体を失いつつあることを自覚している人だー普段、等持院稽古場で稽古していながら、顔を合わせたことのない人たちの交流の場になってしまった感はあるけれど、中間地点で集まれたことはとてもよかった。これまでご縁のなかった人たちともお会いできたし、なにより、人前で話す機会を得ることで、自分のやっていることが、大袈裟にいうと「世界史」のなかで、どのようなポジションでいるのかーなんで自分はこんなことをここでやっているんだろうかという素朴な疑問なのだがーを考える機会となった。 

凡人にとって、自分が生きてきた年数分しか歴史を遡ることは難しいようで、僕など齢72にして、1952年から72年分、歴史を遡れるようになった。とはいえ、70年遡ったとしても1880年代、すでに明治の世は始まっている。この間、日本人の身体観はどのように変化していったのか。西洋文明が怒涛の如く流入した明治期、モノが急速に増えはじめた高度成長期。高度成長期を通過してきた僕など、その時期の変化を肌感覚で知っている世代なので、ついつい、そこに焦点を当てて話を進めてしまうのだけれど、よくよく考えてみると、1980年代にはじまった、パソコン、インターネット、スマホの出現といった出来事ーIT革命と呼ばれているのかーは、高度成長期に匹敵する変化をこの社会に与えてきたのかもしれない。

今回、会を進めるにあたり、晴哉先生の著作と並行して何冊かの本を補助線として紹介していった。列挙すると、「はらぺこあおむし」「身の維新」「ケアの倫理」「近代の呪い」といったもの。最終回で紹介した渡辺京二さんは「増補 近代の呪い」(平凡社ライブラリー 2023)の中で、「普遍」という人間中心主義的価値を取り入れることによって世界は西洋文明化されていかざるを得なかったと説き、二回目の会で取り上げた岡野八代さんは、「ケアの倫理」のなかで、西洋の男たちが築き上げてきた「普遍」という価値感に「ケア」ー整体の観点からすると「双」ということになるのかーの倫理でもって楔を入れようとしてきたフェミニズムに焦点を当てている。

まとめの話になったとき、イリイチのコンビビアリティという言葉が出てきたのは自分でも意外だった。いまだに相応しい日本語に出会ってないけど。おまけに、Tools for  Convivialityの訳者は渡辺京二さんだー未読だけどーそして、祭りの話に。なるほど、祭りというのは、西馬音内盆踊にせよ、諏訪神社の御柱祭にせよ、祭りを中心に一年を過ごしている人たちがいて、その人たちは体を失くしてはいない。近くにいる人たちとの丁寧できめ細かな関係性。僕は、この仕事ー機度間の追求としての整体ーを続けていくだろう。この世が放射能で溢れようとマイクロプラスチックで埋め尽くされようと、西洋化文明社会の帰結として、それは受け入れる。ただ、孫たちが生きていく未来を思うと、世界を少しでもマシなものに変えたいと思う。