父が逝って十日
お葬式からまだ一週間しかたっていない
1月中にこれまで暮らしていた居室を退去することになるので、
その打ち合せのため江戸川区へ
必要な物さえ持ち出せば、あとの始末は施設に一任できるとのこと
お見舞いにいただいた花はまだ元気なのに、居室に父の気配は見事なくらいない
ぼちぼちと荷物の整理をはじめることにした
俳句関係の書籍、謡のテキスト、それに着物類
それらをまとめただけで結構な量になる
狭い我が家に引き取ることになるのかと思うと、先が思いやられる
それでも、なんか一区切りつけられそう
帰途、年末の慌ただしい街の空気の中を歩きながら
安堵している自分がいた
新しい年を新しい気分で迎えられそうです
2014年12月30日火曜日
2014年12月27日土曜日
2014年12月24日水曜日
Dad, it's your turn now - 3
余分なことをしなければ、
人は健やかに逝くことができる
というのが結論だ
しかし、寄ってたかって余計なお世話をする仕組みが出来上がっている
最後の引導を渡す役目が、今回も私に回ってきた
大阪から見舞いに訪ねてきてくれた姪っ子とその息子が帰ってから暫くすると
呼吸がつらそうになり表情に険が出てきた
目を開け、口を開けたまま喘ぎはじめた
これは過呼吸の感じではないか
吸入器を外すことにした
すると自分の静かな息にもどり、表情も穏やかになった
でも、ここからは私の予想より早かった
私と妹と娘の三人が見守るなか
右から左へかぶりを振りながら、両目と口をウームと閉じた
それが最後の息だった
あっけなかった
一年前の義姉の急逝にはじまった私の周りの大変動は、
ひとりひとりが亡くなっていったということではなく、
一連の大きな流れの中で起こった出来事であるとしか思えない
父のお別れ会を東京でやった12月の21日というのは、
義姉の一周忌の日であったし、
父の命日となる12月20日というのは、
妻が亡くなった9月20日からちょうど三ヶ月目の月命日で
しかも曜日も同じ土曜日で、葬儀も23日の祝日
なんだかもう笑うしかない
あ~あ、みんないなくなってしまった
人は健やかに逝くことができる
というのが結論だ
しかし、寄ってたかって余計なお世話をする仕組みが出来上がっている
最後の引導を渡す役目が、今回も私に回ってきた
大阪から見舞いに訪ねてきてくれた姪っ子とその息子が帰ってから暫くすると
呼吸がつらそうになり表情に険が出てきた
目を開け、口を開けたまま喘ぎはじめた
これは過呼吸の感じではないか
吸入器を外すことにした
すると自分の静かな息にもどり、表情も穏やかになった
でも、ここからは私の予想より早かった
私と妹と娘の三人が見守るなか
右から左へかぶりを振りながら、両目と口をウームと閉じた
それが最後の息だった
あっけなかった
一年前の義姉の急逝にはじまった私の周りの大変動は、
ひとりひとりが亡くなっていったということではなく、
一連の大きな流れの中で起こった出来事であるとしか思えない
父のお別れ会を東京でやった12月の21日というのは、
義姉の一周忌の日であったし、
父の命日となる12月20日というのは、
妻が亡くなった9月20日からちょうど三ヶ月目の月命日で
しかも曜日も同じ土曜日で、葬儀も23日の祝日
なんだかもう笑うしかない
あ~あ、みんないなくなってしまった
2014年12月20日土曜日
Dad, it's your turn now - 2
続きを書く時間的余裕は充分あると思っていたのだが、別れの日は意外に早くやってきた。妹たち、可愛いがっていた姪とその息子、俳句仲間、施設の受付嬢...。会うべき人たちには一通り会い、12月19日、89歳の誕生日のその日、父は静かに息を引き取りました。
葛の葉の自由闊達うらやまじ 昧波
2014年12月17日水曜日
Dad, it's your turn now - 1
11月上旬に大阪で妻の四十九日を終え、下旬には秋田で義姉の一周忌をやってきた。秋田から帰ってきた時には、もうクタクタで、娘にいたっては、三日間風邪で臥せってしまった。うらやましい。12月の声を聞いたところで、今度はオヤジの番。こうなるとヤケクソというか、意地というか、もう何でもいらっしゃいという感じ。少なくとも「お願いだから11月は避けてね」という私の念は通じたようなので、感謝はあっても文句をいう筋合いはない。
老人ホーム内に設けられている介護室という名の大部屋で過ごしているオヤジをどの段階で自分の居室に戻すか、そのタイミングを測っていた。介護室にいる限りヘルパーさんたちの目が届くから安心といえば安心。ただ、環境的にはガチャガチャと騒がしいし、面会に行っても、こちらがお客さんになってしまい、長居しづらい。最後家族で看取るとすると、自室に戻す必要がある。ただ、どのタイミングで自室に移行するかが問題。こちらの都合を勘案しすぎると判断が曇る。おまけに、食べられなくなってからは、点滴を受けたり鼻から酸素を入れている状態なのでその判断が余計に難しい。
医療関係者は死というものをどのように捉えているのだろうと、いつも疑問に思う。息が苦しいといえば酸素を与え、顔色が悪いといえば点滴を与える。痛みが出れば鎮痛剤。この足し算思考の先には何があるのですか、という問いには答えてくれない。どうも「健やかな死」というものは想定されていないようなのだ。基本、延命措置は不要ですと予め伝えてあるはずなのに、結構なし崩し的に、というかルーティンワーク的に自分たちの仕事をやってしまう。おまけに、医療を疑わない家族がいたりするとーまあオヤジ自身がそのように生きてきたからなあー僕にできることには自ずと限界がある。
老人ホーム内に設けられている介護室という名の大部屋で過ごしているオヤジをどの段階で自分の居室に戻すか、そのタイミングを測っていた。介護室にいる限りヘルパーさんたちの目が届くから安心といえば安心。ただ、環境的にはガチャガチャと騒がしいし、面会に行っても、こちらがお客さんになってしまい、長居しづらい。最後家族で看取るとすると、自室に戻す必要がある。ただ、どのタイミングで自室に移行するかが問題。こちらの都合を勘案しすぎると判断が曇る。おまけに、食べられなくなってからは、点滴を受けたり鼻から酸素を入れている状態なのでその判断が余計に難しい。
医療関係者は死というものをどのように捉えているのだろうと、いつも疑問に思う。息が苦しいといえば酸素を与え、顔色が悪いといえば点滴を与える。痛みが出れば鎮痛剤。この足し算思考の先には何があるのですか、という問いには答えてくれない。どうも「健やかな死」というものは想定されていないようなのだ。基本、延命措置は不要ですと予め伝えてあるはずなのに、結構なし崩し的に、というかルーティンワーク的に自分たちの仕事をやってしまう。おまけに、医療を疑わない家族がいたりするとーまあオヤジ自身がそのように生きてきたからなあー僕にできることには自ずと限界がある。
12月の第2週、自室に戻すことにした。つまり泊まり込み態勢のはじまりである。
2014年12月14日日曜日
せん妄
せん妄という言葉があることを教えてくれたのは妻の往診に来てくれていた訪問医の先生で、腎機能が低下していくと、その結果尿毒症となり、症状としてせん妄と呼ばれる幻覚、妄想が起きるというものだった。しかし、そのせん妄を「症状」として捉える理解のしかたに違和感を覚えたことを憶えている。妻にもそれらしき兆候が現れたが、事後的に振り返れば、いわば、感情の大掃除をしていたようなもので、そこで表現されていたものは、妻の人生ーつまり私たちの人生ーと切り離せるものであるはずがなく、ましてや投薬といった処方に機械的に委ねられる類のものではなかった。でなければ、その時の、怒りも悲しみも感謝もすべて医学的現象に矮小化されてしまうことになる。
2014年12月13日土曜日
恋
想い出だけで生きていくなんて
できるはずがないと思っていたが
案外、そういう人生も可能なのかもしれない
妻が逝き、
あんまり 淋しいのに
夢の中にさえ出てこないので、
「おい、婚活しちゃうぞ」と写真に話しかけていた
遺品を片付けていたら、
小中高あたりの集合写真が束になって入っている箱が出てきた
一人一人の顔は随分小さくしか写ってないのに
ルーペで拡大してみると、けっこうちゃんと撮れている
大型カメラ侮りがたし
へぇーっと思って、妻の顔を探していくと、
美少女に写っているではないか
カメラをスクっと見据えて
絶対笑わないぞと意志しているかのようで
実に凛とした姿なのだ
僕に見せたことのない写真に
僕の会ったことのない、妻の姿があった
なんとも不思議な出会い感覚
一番気に入ったのは小学校三年生のときのもの
足元が下駄なのが時代を現している
古い写真と対話していくだけで
けっこう楽しい余生を送れそうではないか
こんなんでいいのかな、オレ
できるはずがないと思っていたが
案外、そういう人生も可能なのかもしれない
妻が逝き、
あんまり 淋しいのに
夢の中にさえ出てこないので、
「おい、婚活しちゃうぞ」と写真に話しかけていた
遺品を片付けていたら、
小中高あたりの集合写真が束になって入っている箱が出てきた
一人一人の顔は随分小さくしか写ってないのに
ルーペで拡大してみると、けっこうちゃんと撮れている
大型カメラ侮りがたし
へぇーっと思って、妻の顔を探していくと、
美少女に写っているではないか
カメラをスクっと見据えて
絶対笑わないぞと意志しているかのようで
実に凛とした姿なのだ
僕に見せたことのない写真に
僕の会ったことのない、妻の姿があった
なんとも不思議な出会い感覚
一番気に入ったのは小学校三年生のときのもの
足元が下駄なのが時代を現している
古い写真と対話していくだけで
けっこう楽しい余生を送れそうではないか
こんなんでいいのかな、オレ
2014年12月12日金曜日
2014年12月9日火曜日
MNP
OCNモバイルが音声simの提供を始めたので、長年使ってきたウィルコム/ワイモバイルからOCNにMNP転入することにした。単に愛着のある070の番号でiPhoneを使ってみたかったという以上の理由は見つからない。通信通話料のの節約になるかどうかは不明。申し込みから開通まで実質5日。不通期間は約1日であった。以下、時系列でその経緯をたどっておく。【12/1】OCNが音声サービス開始したことを知る/午後:イオシスにiphone5c docomoモデル発注【12/3】午前:ワイモバイルMNP予約番号取得/iPhone到着/午後:ocnモバイル音声sim申し込み/携帯電話替えますアナウンスメールを知人宛に送信【12/4】深夜:アマゾンにiphone用ケース発注【12/5】午前:iPhoneケース到着【12/6】午後:ワイモバイル不通となる【12/7】午後:OCNカスタマーズフロントにSIMカード配送状況を問い合わせるも不明との返事/ OCNマイページにMNP転入の番号も追加されているのを発見/夜:帰宅したら佐川急便からの不在配達票【12/8】午前:佐川急便で音声sim届く/通話可能になる/午後:出先のwifiを借りてOCNの構成プロファイルをDL+インストールすることでデータ通信も可能になる【12/9】iOSを8.1.1にアップグレード。テザリングも可能になる。
2014年12月3日水曜日
時間割
月刊全生の巻末に掲載されはじめた修養講座の時間割を眺めていると、身体教育研究所が始まった頃の時間割を思い出す。当時(1988〜)の稽古場というのは週4日集団稽古をやっていて、そこに10種類の稽古種目(動法、行気、脱力動法、活元運動、感応動法、相互行気、内観的愉気、気韻、筆動法、あとひとつ思い出せない)を順繰りに組み込んでいくというものだったから、時間割を組み立てていくのは、なかなか大変だった。修養講座で取り入れられた単位制というアイデアも稽古場でやろうとしていたものだが、開催場所の数が多かったのと、それに対応する人力不足で実現しなかった(言い訳w)。
修養講座に出ている人の話を聞くと、なかなか活気があるようで、担当者一人ひとりの解釈の違いが、整体というものの幅を広げているようだ。百花繚乱。勉強している人にとっては面白いだろうし、一方、担当している先生方には、すごい鍛錬の場になっているのではなかろうか。D先生の色に染まっていく速度がちょっと早過ぎるんじゃないのと思わないわけではないが...。
最近の私の稽古はすべて「カタと同調」という名称で済ませてしまっているけれど、稽古場でやってきたいろんな種類の稽古を集約していった結果、「カタと同調」にたどり着いたというだけで、必要に応じて、もとの細分化された稽古に立ち戻れるというのは、25年間稽古してきた賜物だろう。この集注と拡散を往き来する運動性というものを自分の中で如何に保つかが課題だな〜。
身体教育研究所の公式HPが出来る前、非公式サイトを運営していた。どこかに痕跡が残ってないか辿ってみたら、いまでも閲覧可能な状態にあるらしい。リンク切れの部分もあると思うがご参考までに。2001年バージョンのようです。http://dohokids.com//skk/skk.html
修養講座に出ている人の話を聞くと、なかなか活気があるようで、担当者一人ひとりの解釈の違いが、整体というものの幅を広げているようだ。百花繚乱。勉強している人にとっては面白いだろうし、一方、担当している先生方には、すごい鍛錬の場になっているのではなかろうか。D先生の色に染まっていく速度がちょっと早過ぎるんじゃないのと思わないわけではないが...。
最近の私の稽古はすべて「カタと同調」という名称で済ませてしまっているけれど、稽古場でやってきたいろんな種類の稽古を集約していった結果、「カタと同調」にたどり着いたというだけで、必要に応じて、もとの細分化された稽古に立ち戻れるというのは、25年間稽古してきた賜物だろう。この集注と拡散を往き来する運動性というものを自分の中で如何に保つかが課題だな〜。
身体教育研究所の公式HPが出来る前、非公式サイトを運営していた。どこかに痕跡が残ってないか辿ってみたら、いまでも閲覧可能な状態にあるらしい。リンク切れの部分もあると思うがご参考までに。2001年バージョンのようです。http://dohokids.com//skk/skk.html
2014年12月2日火曜日
水
秋田に行くたびに
水が美味いと感じる
食事をする度に、お茶を飲む度に、
特に今回は福岡伸一の本を読んでいたせいもあるかもしれないが
体の中の水分が、入れ換わっていく感がある
横浜市の水道水は比較的美味しいとされている
そのような感想を抱くことは稀だが、
それでもペットボトルで売られている道志川の水は柔らかくて美味しい
ただ、道志川で取水された水が、どういう経路で、我家まで届けられているのだろう
いずれにしても、随分な距離を移動<させられて>きていることは確かだ
秋田の水が美味いのは、この移動距離の短さにも由来するのではないのかしら
水が本来持っている律動感が減衰しないうちに蛇口から出てきて、
それを口にすると美味いと感じる
そんなこともあるのではなかろうか
水も地産地消にはかなわないということか
いやー、水の美味しいところに住みたい
水が美味いと感じる
食事をする度に、お茶を飲む度に、
特に今回は福岡伸一の本を読んでいたせいもあるかもしれないが
体の中の水分が、入れ換わっていく感がある
横浜市の水道水は比較的美味しいとされている
そのような感想を抱くことは稀だが、
それでもペットボトルで売られている道志川の水は柔らかくて美味しい
ただ、道志川で取水された水が、どういう経路で、我家まで届けられているのだろう
いずれにしても、随分な距離を移動<させられて>きていることは確かだ
秋田の水が美味いのは、この移動距離の短さにも由来するのではないのかしら
水が本来持っている律動感が減衰しないうちに蛇口から出てきて、
それを口にすると美味いと感じる
そんなこともあるのではなかろうか
水も地産地消にはかなわないということか
いやー、水の美味しいところに住みたい
2014年11月30日日曜日
雪囲い
雪降る前の気分ってどんなの?
と義妹(年上ですが)に訊いてみたら、
雪降るまでは、いやだいやだと思うけど、
一旦降ってしまえば、諦めがつく、との答えが返ってきた
そうなんだろうな
この土地に暮らす限り
四季折々の行事が雪とともにある
何百年もの間、そのように暮らしてきた
雪囲いされた家をひと周りし、
雪掻きしていた日々を思い出しながら、
それからまだ一年経ってないことに驚く
無人の家を維持していくのは大変だ
水道管が破裂しないよう、水抜きをして元栓を閉じる
雪降ろしは誰かに頼むとしても
雪消しをしないことには家は雪で埋まる
人が暮らすことで、家はかろうじて保たれるのだ
来るたびに更地が増えていくのを残念がるのは、街人間の勝手な感傷
でも、もったいない
昨日、義姉の一周忌も済ませ、これでようやく一区切り
これから帰京するが、当地の天気予報には明後日あたりから雪マークが付いている
明日から12月
と義妹(年上ですが)に訊いてみたら、
雪降るまでは、いやだいやだと思うけど、
一旦降ってしまえば、諦めがつく、との答えが返ってきた
そうなんだろうな
この土地に暮らす限り
四季折々の行事が雪とともにある
何百年もの間、そのように暮らしてきた
雪囲いされた家をひと周りし、
雪掻きしていた日々を思い出しながら、
それからまだ一年経ってないことに驚く
無人の家を維持していくのは大変だ
水道管が破裂しないよう、水抜きをして元栓を閉じる
雪降ろしは誰かに頼むとしても
雪消しをしないことには家は雪で埋まる
人が暮らすことで、家はかろうじて保たれるのだ
来るたびに更地が増えていくのを残念がるのは、街人間の勝手な感傷
でも、もったいない
昨日、義姉の一周忌も済ませ、これでようやく一区切り
これから帰京するが、当地の天気予報には明後日あたりから雪マークが付いている
明日から12月
2014年11月28日金曜日
11月の読書
下のリストのうち、現在進行形のものが4冊
今月は腰を落ち着けて本と向かい合う状態に入れなかった
どうすれば「人」を創れるか 石黒浩 新潮文庫 2014
せいめいのはなし 福岡伸一 新潮文庫 2014
シャバはつらいよ* 大野更紗 ポプラ社 2014
兵士は起つ* 杉山隆男 新潮社 2013
日本国憲法を生んだ密室の九日間* 鈴木昭典 角川ソフィア文庫 2014
クレージー・イン・ジャパン べてるの家のエスノグラフィ 中村かれん 医学書院 2014
日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか
矢部宏治 講談社インターナショナル 2014
311のとき、日本政府・東電の当事者能力のなさに、「この国は信託統治に置かれるべきだ」と思ったが、「そもそも日本政府に当事者能力はなかった」ということを解明したのがこの本である。
せいめいのはなし 福岡伸一 新潮文庫 2014
シャバはつらいよ* 大野更紗 ポプラ社 2014
兵士は起つ* 杉山隆男 新潮社 2013
日本国憲法を生んだ密室の九日間* 鈴木昭典 角川ソフィア文庫 2014
クレージー・イン・ジャパン べてるの家のエスノグラフィ 中村かれん 医学書院 2014
日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか
矢部宏治 講談社インターナショナル 2014
311のとき、日本政府・東電の当事者能力のなさに、「この国は信託統治に置かれるべきだ」と思ったが、「そもそも日本政府に当事者能力はなかった」ということを解明したのがこの本である。
2014年11月21日金曜日
ADSL停止
10年以上使い続けてきたADSLを止めた
とうとう光にするの?
という話ではなくて、モバイル契約だけにした
200k+月4Gのプラン
つまり、200kbpsという低速度接続が基本で、
月4Gバイト分まで高速のLTE接続を使えるというもの
ADSLをやめて、いきなり後悔
1日0.5G使ってたら、一週間で4G使い切っちゃうじゃないか
自分が結構ネットのヘヴィーユーザーであったことに今更ながら気づく
それでも二週間経つと、200kbpsという低速度にも適応し
(電話回線+モデムの時代の接続速度32kbpsという時代を知っている世代なので…)
これだけでやっていけそうな感じである
ここ4、5年の間に、テレビ新聞なしの生活に移り、
情報源はネットとラジオだけという感じでやってきたが、
そのネット依存もほどほどにすべしと、あえてパイプを細くすることにした
mixiからは離脱、twitterはダイエット中、facebookもROM状態
というような具合だ
世の中と細くつながっていた方が、正気が保てる
そんな時代にさしかかっているようだ
とうとう光にするの?
という話ではなくて、モバイル契約だけにした
200k+月4Gのプラン
つまり、200kbpsという低速度接続が基本で、
月4Gバイト分まで高速のLTE接続を使えるというもの
ADSLをやめて、いきなり後悔
1日0.5G使ってたら、一週間で4G使い切っちゃうじゃないか
自分が結構ネットのヘヴィーユーザーであったことに今更ながら気づく
それでも二週間経つと、200kbpsという低速度にも適応し
(電話回線+モデムの時代の接続速度32kbpsという時代を知っている世代なので…)
これだけでやっていけそうな感じである
ここ4、5年の間に、テレビ新聞なしの生活に移り、
情報源はネットとラジオだけという感じでやってきたが、
そのネット依存もほどほどにすべしと、あえてパイプを細くすることにした
mixiからは離脱、twitterはダイエット中、facebookもROM状態
というような具合だ
世の中と細くつながっていた方が、正気が保てる
そんな時代にさしかかっているようだ
2014年11月18日火曜日
2014年11月17日月曜日
32℉
会うたびに「お疲れの出ませんように」
と、声を掛けてくださる方がいて、
そう草臥れているという実感もなかったので、
「お気遣い有難うございます」と儀礼的に応じていたのだが、
四十九日を終え、忌明けのお礼を届けたあたりから、
やっぱりオレ疲れてる?
と疲れを自覚するようになった
忌明けのお返しはどうしようかと考えたとき、
思いついたのは、地元に 4 、5年前にできたカフェ
たまに独りでカフェオレを飲みに寄ることもあったが、
カミさんの御伴で出かけるというのが専らだった
この店の紅茶は好きで、よく買ってきて、家でも淹れていた
若夫婦二人でやっているお店で、
相談に出かけて行ったら、「是非やらせて下さい」とのこと
結構な数をお願いすることになるので、
通常業務の妨げにならないか心配したが、
包装から配送の手配のところまで引き受けてくださることになった
だから、私がやったのは、送り状の宛名書きくらいで、あとはもう丸投げ
かなり負担だったんじゃないかと思う
基本、紅茶とコーヒーとクッキーの詰め合わせなのだが、
その組み合わせも、あれこれリクエストされるし、
あとから、クッキーだけの箱を作ってくれと言ってくるし、
結構我儘な依頼主だったかも
とまあ、お陰でひと仕事終えられました
32°Fというのが、お店の名前で、
摂氏零度ということになるのだが、
この店の名前の由来がなんなのか訊いたことなかったな
次行ったとき尋ねてみることにしよう
と、声を掛けてくださる方がいて、
そう草臥れているという実感もなかったので、
「お気遣い有難うございます」と儀礼的に応じていたのだが、
四十九日を終え、忌明けのお礼を届けたあたりから、
やっぱりオレ疲れてる?
と疲れを自覚するようになった
忌明けのお返しはどうしようかと考えたとき、
思いついたのは、地元に 4 、5年前にできたカフェ
たまに独りでカフェオレを飲みに寄ることもあったが、
カミさんの御伴で出かけるというのが専らだった
この店の紅茶は好きで、よく買ってきて、家でも淹れていた
若夫婦二人でやっているお店で、
相談に出かけて行ったら、「是非やらせて下さい」とのこと
結構な数をお願いすることになるので、
通常業務の妨げにならないか心配したが、
包装から配送の手配のところまで引き受けてくださることになった
だから、私がやったのは、送り状の宛名書きくらいで、あとはもう丸投げ
かなり負担だったんじゃないかと思う
基本、紅茶とコーヒーとクッキーの詰め合わせなのだが、
その組み合わせも、あれこれリクエストされるし、
あとから、クッキーだけの箱を作ってくれと言ってくるし、
結構我儘な依頼主だったかも
とまあ、お陰でひと仕事終えられました
32°Fというのが、お店の名前で、
摂氏零度ということになるのだが、
この店の名前の由来がなんなのか訊いたことなかったな
次行ったとき尋ねてみることにしよう
2014年11月13日木曜日
西光寺から宝慶寺へ
結婚式の記念写真に納まっている人の数27名
時は1987年5月、場所は京都亀岡の西光寺という小さな禅寺
27年後の今、その写真を見直すと、物故された方が9名
四半世紀たつと、三分の一の人が消えてゆくのだ
四十九日の法要を大阪で終え、その足で金沢へ
白山稽古会のあと金沢にもう一泊し、
翌日、福井県大野市の宝慶寺を目指すことにした
27年前、結婚式で導師を務めていただいた和尚が住職をされているお寺である
稽古会仲間が車を出してくれるというので、その言葉に甘えることにし、
他の稽古会仲間とその家族も加わることになり、
結局、車2台、総勢9名(うち子ども3名)の大所帯になってしまった
時は1987年5月、場所は京都亀岡の西光寺という小さな禅寺
27年後の今、その写真を見直すと、物故された方が9名
四半世紀たつと、三分の一の人が消えてゆくのだ
四十九日の法要を大阪で終え、その足で金沢へ
白山稽古会のあと金沢にもう一泊し、
翌日、福井県大野市の宝慶寺を目指すことにした
27年前、結婚式で導師を務めていただいた和尚が住職をされているお寺である
稽古会仲間が車を出してくれるというので、その言葉に甘えることにし、
他の稽古会仲間とその家族も加わることになり、
結局、車2台、総勢9名(うち子ども3名)の大所帯になってしまった
2014年11月8日土曜日
2014年11月4日火曜日
2014年10月30日木曜日
2014年10月29日水曜日
2014年10月23日木曜日
雑感1
AppleとFacebook、女性従業員の卵子凍結費用を支援というニュースを見て、ああ、来るべき時代が来てしまった、という感慨を持つと同時に、これから先、ネットとどう付き合っていけばよいのか、深く考えさせられることになった。彼ら=米国のIT企業=がインターネットによって実現しようとしている世界において、生殖技術によって生命をコントロールしていくことは、「自明」のものとして、あらかじめ組み込まれているわけで、「インターネットを使ってるってことは、生殖技術も認めるんでしょ」という世界観(宗教観と呼んでもよい)に飲み込まれないためには、相応の理論武装が必要になる。(以前読んだ、『ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 』(池田純一著 講談社現代新書)には、ここらあたりの事情が書かれている)
2014年10月17日金曜日
2014年10月13日月曜日
臥法
ロイ先生が亡くなって二ヶ月
本部道場ではじまった稽古会風なコマ割りが話題に上がる
整体協会の総監督がダン先生になったことで
整体指導室と稽古場の関係はこれから先どのようになっていくのか
確かに一組織二制度で活動してきたのに頭が同じになっちゃった、というのは妙である
このあたり皆さん気になるらしい
人が行き来することで風通しがよくなれば
それはそれで喜ばしいことだと思うが、
かといって、これまで別々に活動してきたものが慌てて一つになるとは考えにくいし
また、その必要もないだろう
十年先、二十年先の、次の世代のことは分からないけれど
稽古場でやっていることを極論すれば
接触以前に焦点を当てているところだろう
手を触れて、そこから何かがはじまるのではなく、
触れる前に何が行われるべきかの追求
整体指導者って坐るのが仕事なわけで、
坐法でなくても、それぞれ工夫をしてきているはず
鍵になるのは臥法だろう
たとえば操法を受けに来た人に臥法を求めるかどうか
これがあるかないかで、指導者と会員との関係性はまるで違ったものになる
臥法は稽古場にぜひとも取っておいてもらわねば
次、ダン先生に会った時にお願いしておこう
本部道場ではじまった稽古会風なコマ割りが話題に上がる
整体協会の総監督がダン先生になったことで
整体指導室と稽古場の関係はこれから先どのようになっていくのか
確かに一組織二制度で活動してきたのに頭が同じになっちゃった、というのは妙である
このあたり皆さん気になるらしい
人が行き来することで風通しがよくなれば
それはそれで喜ばしいことだと思うが、
かといって、これまで別々に活動してきたものが慌てて一つになるとは考えにくいし
また、その必要もないだろう
十年先、二十年先の、次の世代のことは分からないけれど
稽古場でやっていることを極論すれば
接触以前に焦点を当てているところだろう
手を触れて、そこから何かがはじまるのではなく、
触れる前に何が行われるべきかの追求
整体指導者って坐るのが仕事なわけで、
坐法でなくても、それぞれ工夫をしてきているはず
鍵になるのは臥法だろう
たとえば操法を受けに来た人に臥法を求めるかどうか
これがあるかないかで、指導者と会員との関係性はまるで違ったものになる
臥法は稽古場にぜひとも取っておいてもらわねば
次、ダン先生に会った時にお願いしておこう
2014年10月11日土曜日
和解
夫婦とは異化である
故に、軋轢葛藤は、夫婦間に於いてデフォルトである
かつ、お互い至近距離にいるため、殺傷力は強力である
その異化から始まる関係のなかで
同化を探っていくこと
これを「結婚生活」と呼び
共同作業によって、同化領域を増やしていくこと
これを「練る」という
とはいえ、
その同化のための共同作業は
年を経るにつれ減ってゆき
同化しきれなかったものが堆積沈殿してゆく
これを「諦めの境地に入る」という
ところが、その沈殿物はやがて腐敗発酵しはじめ、
長い時を経たのち、たとえば病気の形をとって発動する
しかし、これもまた、同化に向かおうとするはたらきなのだ
人間ってほんとやっかい
和解は可能か?
このまま、和解なきまま離別することになるのか
最期の一ヶ月を過ごす前まで、そんな風に半ば諦めていた
ところが
あの汗とあの熱とあの最後の大欠伸によって
僕らの間にあったわだかまりという名の沈殿物を大掃除して妻は逝ってしまった
まったく見事だよ
和解は可能だ
故に、軋轢葛藤は、夫婦間に於いてデフォルトである
かつ、お互い至近距離にいるため、殺傷力は強力である
その異化から始まる関係のなかで
同化を探っていくこと
これを「結婚生活」と呼び
共同作業によって、同化領域を増やしていくこと
これを「練る」という
とはいえ、
その同化のための共同作業は
年を経るにつれ減ってゆき
同化しきれなかったものが堆積沈殿してゆく
これを「諦めの境地に入る」という
ところが、その沈殿物はやがて腐敗発酵しはじめ、
長い時を経たのち、たとえば病気の形をとって発動する
しかし、これもまた、同化に向かおうとするはたらきなのだ
人間ってほんとやっかい
和解は可能か?
このまま、和解なきまま離別することになるのか
最期の一ヶ月を過ごす前まで、そんな風に半ば諦めていた
ところが
あの汗とあの熱とあの最後の大欠伸によって
僕らの間にあったわだかまりという名の沈殿物を大掃除して妻は逝ってしまった
まったく見事だよ
和解は可能だ
2014年10月4日土曜日
句会
句会デビューしてきた
といっても、父の付き添い
孫たちが交互に付き合うことが多かったが、
9月は手が足らず、図らずも私に出番が回ってきた
私の妹も付き添ったことがあるから一家総出(笑)
いろんなものを諦めて諦めて
最後に残ったのが俳句だよね
ということは家族みんなに共有されているから
「おじいちゃん厳しい」といいながら孫たちも付き合ってくれている
さて句会
なかなかの集注感
三時間の会が終わったときには、結構ぐったり
予め父には、俳句持って来なさいよと念を押されていたから、
いくつか持参
人前に自分の句を晒すのはためらわれたが、
いったん自分の手を離れると客観的に見れてしまうのは面白い
介護真最中だったから、
その風景を言葉に落とし込もうとしていただけ
指通信たれと話すや夢十夜(和)
お題の月の句もひとつ用意したのだが、
あまりにもベタな句なのでここには載せず、
代わりに父の句を紹介しておく
月今宵兎は波の上走る (昧波)
会の最後、「10月の兼題は昧波さんに」、と振られて
即座に「新」で行きましょうと応じた父
この秋の季節に「新」?といぶかるも、
いざ、10月になってみれば、確かに「新」という語がふさわしい
9月17日のことである
2014年10月2日木曜日
2014年9月30日火曜日
2014年9月26日金曜日
出立記 2014.8~9
1
死ぬのも人間の自然
と口では言いながら
いざ、妻の命の
残り少ないことが予感されると
その命をこの世に繋ぎ留めておきたい
と願っている私がいた
医者を恃み
優しい言葉をかけながら
覚悟させる役目から逃れようとしている
いや、覚悟できてないのは
この私、なのだ
---
2
在宅医療を頼んだら、
いきなり看護師やらケアマネさんがやってきて、
いきなり看護師やらケアマネさんがやってきて、
ほどなくして大きな介護ベッドも運び込まれた
在宅医療とは病室を家庭内に出現させることであった
生活空間は医療現場に変貌し、家族は医療補助者として教育される
家庭の風景が毀損されていく
---
3
ここ一年の娘の成長ぶりは目を見張るほどで、
昨年末の叔母の死、8月のロイ先生急逝を受けて、
ぐいぐい大人になってきた
正論を振りかざす娘のまえで、父親はタジタジである
こいつと一緒になる男はきっと大変だ、
つい想いはそっちに向かう
---
4
世の中、子供と大人の二種類しかいない
困ったことに、
その違いは幼少期に決定づけられる、
としか思えない
その時期に集注要求を満たされなかった人間は、
最後の局面においても、
その満たされなかったものを周囲に要求しつづける
---
5
点滴を止めることにした
すると顔の肉から落ち始める
でも、これでようやく自然の経路に戻ってきた
という感覚が得られる
これまで動きのなかった腹に息が入りはじめる
点滴とは、アンチエイジングの手法に過ぎないのだ
ある日、帰宅したら、使われなくなった点滴セットが
押入れにしまい込まれている
娘なりの決意表明
こいつ、俺より肚が据わっている
普段の生活空間が戻った
---
6
食べて寝て夢を見て起きて排泄してまた眠る
赤ちゃんと同じようなリズムで一日一日が過ぎてゆく
食欲が最後の砦となり、
次々に要求が持ちだされる
冷凍庫はアイスで埋まり、
冷蔵庫は味見し終わったゼリーや果物で埋まる
妻が望む「ぴったり」はどこにあるのか
離乳食で試行錯誤した頃が思い出される
実際、看取りは育児に似ている
話しかけは必須
赤子が夢を見ながら育っていくように、
往く者たちもまた、夢の中でなにかを育てようとしているのだ
そして、子供によって親が育っていくように、
送る側にいる者の中に何かが育てられていく
—
7
トイレまでの距離が遠くなる
9月はじめには、一人で歩いていけていたものが、
9月二週目には、人の肩を借りるようになり、
三週目に入ると、トイレまでの歩数がその前の週の二倍になり、
便座に座った姿勢を保つこともむずかしくなってきた
でも頑張っている
---
8
腕に汗をかき、しきりに痰を出す
死ぬには体力が要る
という言葉を残して逝ったのは四国のNさんだったが、
整ってはじめてヒトは死ぬことができる
そんなことにも気づかず僕は右往左往していたのだ
---
9
固形物が食べられなくなり
液体も喉を落ちていくものと落ちていかないものに分かれてきて
やがて水だけになる
でも、腹水で膨れていた腹は、
いつの間にかふくよかな腹に戻りはじめる
言葉は不明瞭になってくるが、
それを補うように手の動きで意思を伝えようとする
こんなに手の表情豊かだったっけ
介護ベッドの背と脚の角度を変え楽な体勢を見つけていく
一つ動いて三つ動いて最後に二つ動く
といったように動きを分けないと適度な速度が得られない
その加減も手の動きで指示される
---
10
呼吸が浅く速くなり、脈も弱く速くなる
でも一息四脈
しきりに暑さを訴え、風を送ってくれという
こんなに細くなってしまっているのに、
今更何を燃やそうというのだ
仰いでやると、うっとりした表情で
「気持ちいい」と言う
夢をみている
だれかと会話している
信号を送っているかのように十本の指が細かく動く
訊いても教えてくれない
感情が不安定になる
あっちに行ってしまった目で
「点滴をつないでください」
と、懇願された時には動揺した
「おかあさん、 大丈夫だよ」
「おかあさん、 大丈夫だよ」
この場面でもブレなかったのは娘の方だった
---
11
ベッドの角度調整だけでは追いつかず、
自分で動かすのがつらくなった胴体の角度や膝の曲がり加減を
こうしろああしろと指示される
徹頭徹尾、鳩尾を抜こうとしている
虚の通り道を作ろうとするかのように
親子三人がかりで行気している状態
やがて静かなまとまり感が生まれる
僕の右掌が妻の鎖骨と胸骨のつながり目に触れると、
いきなり巨大な欠伸が襲ってきた
体の奥の奥の底からから生まれてくる欠伸が出口を求めて動きはじめる
僕の顔は欠伸と涙でぐじゃぐじゃになる
あちこちからの小川の流れが寄せ集まって大きな河になるように、
体の隅々から吐きの息が集まってくる
やがて巨大な欠伸が僕の喉を通り抜けると、
ああ終わったという感覚が訪れてきた
「言いたいこと一杯溜まってたんだ、ごめんね」
と声をかけて手を離すと、
妻の呼吸は静かで、目は遠くを見ていた
---
12
これで今晩は平和だろう
と、ホッとして台所で一服していると
「おとうさん」と娘が呼ぶ
えー、と思ってベッドに行くと
妻はもう旅立っていた
もう少し一緒にいられると思っていたのに
---
13
はい、私はただの青二才でした
生死を人に説くなんて百年早い若造でした
人はこのように生き切るのだ、
という見本を妻に観せられてしまった私は
これから先をどう生きていけばよいのだろう?
「もっと自分の脚元を観なさい」
と言い残して妻は逝ってしまった、そんな気がする
大仕事ひとつ三人でやりとげた
そんな充足感が残った
月満ちて産まれる如く旅立てり (和)
(妻初七日の日に記す)
2014年8月30日土曜日
8月の読書
猛暑から一転、秋の天候となる
怒涛のようだった8月もようやくおしまい
しかし、昨年暮れくらいに始まった時代の歯車が大きく動いてる感じは、
暑さが鎮まったくらいでは止まりそうもない
一体、この流れは、どこに向かっているのだろう?
ヘタウマ文化論* 山藤章二 岩波新書 2013
電気は自給があたりまえ* 田中優/編著 合同出版 2013
電気は自給があたりまえ* 田中優/編著 合同出版 2013
資本主義という謎* 水野和夫・大澤真幸 NHK出版新書 2013
1Q84 book 1,2,3 村上春樹 新潮社 2009
1Q84 book 1,2,3 村上春樹 新潮社 2009
建築家と小説家* 若山滋 彰国社 2013
一神教と国家 内田樹・中田考 集英社新書 2014
一神教と国家 内田樹・中田考 集英社新書 2014
流星ひとつ* 沢木耕太郎 新潮社 2013
限界集落の真実* 山下祐介 ちくま新書 2012
地宝論* 田中優 こどもの未来社 2011
限界集落の真実* 山下祐介 ちくま新書 2012
地宝論* 田中優 こどもの未来社 2011
2014年8月27日水曜日
1974年4月 To Mexico
3月および4月前半のSanta Feパートは後回しにして、メキシコパートに入ることにします。サンタフェにはチカーノと呼ばれているメキシコ系の住民も多く住んでいる。歴史的にみれば、もともとメキシコだった土地なわけで、スペイン語を耳にする機会は多い。ここまで来たからには国境を越えてメキシコにも足を伸ばしたい。メキシコシティの南にあるCuernavacaという街にはFWCのセンターもある(はずだった)。というわけで、イースターで学校も休みに入るので、国境を目指すことにした。
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4月15日(月) チワワ発0820の列車で鉄路(チワワ太平洋鉄道)太平洋を目指す。途中、カッパーキャニオン(銅渓谷)を通る。グランドキャニオンよりもでかいらしい。La Junta – Creel – (copper canyon) -Sufragio着2030。
(そうそう、このカッパーキャニオンのあたりが「走る種族」と呼ばれるタラウマラ族が住むエリアなのだ ⇒ Born to Run 。そもそもメキシコを目指した理由のひとつにカスタネダの影響がある。1973年の大学生の間ではカスタネダの本は必読の書であった。)
4月16日(火) Sufragio発0300 – Mazatlan 着0835
4月17日(水) Mazatlan, mexico 昨晩食べたエビがあたり食中毒。
4月18日(木) MazatlanからバスでCiudad Mexio(メキシコシティ)へ
4月19日(金) メキシコシティ到着後、すぐにCuernavaca行きのバス停からクエルナバカへ
4月20日(土) Cuernavaca 終日、FWCラテンアメリカセンターを探すが見つけられず
4月21日(日) Cuernavaca ラテンアメリカンセンター探しは徒労に終わる。
なんとグアテマラに移転していたのだ!
(なんで自分は旅してるんだろう? というメモ書きがある。アホである。それはともかく、クエルナバカで覚えているのは鮮やかな緑。みずも滴るような樹木)
4月22日(月) Cuernavacaからメキシコシティに戻る
4月23日(火) メキシコシティ徘徊
4月24日(水) メキシコシティからテオティワカン日帰り
そして国立人類学博物館
4月25日(木) メキシコシティから汽車でエルパソに向かう
4月26日(金)
4月27日(土)エルパソに早朝到着。再びヒッチハイクを始め、夕刻SFCS到着
(旅は無意味だ!というメモ書きがある。やっぱりアホである。だって、このあともずっと同じこと繰り返すのだから...)
2014年8月25日月曜日
ピアノ搬出
ピアノが、わが家に来たのは15年前
娘も最初の5年くらいは熱心に弾いていたが
高校に入ってからあとは、
ピアノに向かう頻度はぐっと減り
忘れた頃に、ポロンポロンと鳴らすくらい
このまま退蔵させておくのは申し訳ない、と
もともとの持ち主に訊ねてみたら
係累に使ってくれそうな方がいらっしゃるという
渡りに船と、譲っていただいたピアノをお返しすることになった
そういえば、このピアノについて書いたことがあるなと、
ファイルの奥をゴソゴソ探してみたらありました
-----
■ピアノの発表会で娘と「連弾」したことは、以前書いた。今年の春のことである。その時、つくづく思ったのは、ピアノと電子ピアノはまったく別物であること。あったりまえじゃないかと言われれば自分の無知を恥じるしかないが、弾いてみてはじめて実感した。よく、4年もの間、別物で我慢してくれていたものだ。そんなわけで、どうしてもピアノを買ってやらねばならぬ状態に陥った。しかし、ピアノは高価であるし、それ以上に狭い家に住む身分にあって、はっきりいって置き場所がない。つまり、板挟み状態。■そんなとき、人を介して、今は使われていないピアノを借り受ける話が舞い込んできた。Bealeという、ほとんど知られていないメーカー製の小型ピアノ。イギリス製ということだったが、どうやらオーストラリア製。1902年、初代オーストラリア首相のバートン卿によって創立され、第二次大戦中に会社自体がなくなったというところまでは、インターネットで調べることができた。もっともイギリスにも同じ名前の会社があった可能性がないわけではない。いずれにしても、作られてから半世紀以上たったピアノであることは間違いない。今の持ち主自身、30年は使っていたはずだ。■夏休みの終わり、娘と二人でどんなピアノか観にゆかせてもらったのだが、とにかく可愛いし音もいい。(ずいぶん広い部屋に置かれていたから、実物がわが家にくるとどう感じるか心配ではある)。少なくとも、標準とされる大きさのピアノよりは威圧感がなく、かろうじてわが家に納まりそうだ。新品のピアノにくらべれば、調律・整備はより頻繁に必要になりそうだが、使用料と思えば納得できる。ピアノの到着をこころまちにしている。【気刊あざみ野通信1999年9月】
娘も最初の5年くらいは熱心に弾いていたが
高校に入ってからあとは、
ピアノに向かう頻度はぐっと減り
忘れた頃に、ポロンポロンと鳴らすくらい
このまま退蔵させておくのは申し訳ない、と
もともとの持ち主に訊ねてみたら
係累に使ってくれそうな方がいらっしゃるという
渡りに船と、譲っていただいたピアノをお返しすることになった
今日、運送屋さんが来て、手際よく運び出していったのだが、
随分とあっけない
なんだか古巣に帰れるのをよろこんでるみたいだったな、あのピアノ
そういえば、このピアノについて書いたことがあるなと、
ファイルの奥をゴソゴソ探してみたらありました
-----
■ピアノの発表会で娘と「連弾」したことは、以前書いた。今年の春のことである。その時、つくづく思ったのは、ピアノと電子ピアノはまったく別物であること。あったりまえじゃないかと言われれば自分の無知を恥じるしかないが、弾いてみてはじめて実感した。よく、4年もの間、別物で我慢してくれていたものだ。そんなわけで、どうしてもピアノを買ってやらねばならぬ状態に陥った。しかし、ピアノは高価であるし、それ以上に狭い家に住む身分にあって、はっきりいって置き場所がない。つまり、板挟み状態。■そんなとき、人を介して、今は使われていないピアノを借り受ける話が舞い込んできた。Bealeという、ほとんど知られていないメーカー製の小型ピアノ。イギリス製ということだったが、どうやらオーストラリア製。1902年、初代オーストラリア首相のバートン卿によって創立され、第二次大戦中に会社自体がなくなったというところまでは、インターネットで調べることができた。もっともイギリスにも同じ名前の会社があった可能性がないわけではない。いずれにしても、作られてから半世紀以上たったピアノであることは間違いない。今の持ち主自身、30年は使っていたはずだ。■夏休みの終わり、娘と二人でどんなピアノか観にゆかせてもらったのだが、とにかく可愛いし音もいい。(ずいぶん広い部屋に置かれていたから、実物がわが家にくるとどう感じるか心配ではある)。少なくとも、標準とされる大きさのピアノよりは威圧感がなく、かろうじてわが家に納まりそうだ。新品のピアノにくらべれば、調律・整備はより頻繁に必要になりそうだが、使用料と思えば納得できる。ピアノの到着をこころまちにしている。【気刊あざみ野通信1999年9月】
2014年8月18日月曜日
ある日曜日
親に連れられて稽古場にやってきた高1女子
「高校生になったらもっと大人の感じになれると思ったのに」と宣う
そうか、高1女子はこんな風に自らの歳を感じ取るのかとなぜか嬉しくなる
「そうだよね、先生だって60になったらもう少し大人の感じになれると思っていたのに…」
とその子に聞こえないように相槌を打つ
父の住む高齢者施設の週二回だけ開く喫茶室
80歳、85歳、88歳の男たちがテーブルを囲んで珈琲を飲んでいる
その輪に加わり、しばし談笑
「12歳のとき疎開先で竹槍訓練をさせられて…」
それぞれが戦争体験者であり、高度成長JAPANの中で生きてきた人たち
それにしてもこの違和感のなさはなんなのだ?
と自分の立ち位置をふりかえる
ひょっとして、いやきっと、ヒトは成長も成熟もせず、
ただただその時代の空気を吸い吐きしながら生きているだけなのだ
「高校生になったらもっと大人の感じになれると思ったのに」と宣う
そうか、高1女子はこんな風に自らの歳を感じ取るのかとなぜか嬉しくなる
「そうだよね、先生だって60になったらもう少し大人の感じになれると思っていたのに…」
とその子に聞こえないように相槌を打つ
父の住む高齢者施設の週二回だけ開く喫茶室
80歳、85歳、88歳の男たちがテーブルを囲んで珈琲を飲んでいる
その輪に加わり、しばし談笑
「12歳のとき疎開先で竹槍訓練をさせられて…」
それぞれが戦争体験者であり、高度成長JAPANの中で生きてきた人たち
それにしてもこの違和感のなさはなんなのだ?
と自分の立ち位置をふりかえる
ひょっとして、いやきっと、ヒトは成長も成熟もせず、
ただただその時代の空気を吸い吐きしながら生きているだけなのだ
2014年8月15日金曜日
1974年2月 Santa Fe
自分が使っていたノートとはいえ、解読に苦労している。ただ、言えるのは、人間は進歩しない、ということ。この間何やってたんだろう。体験は積んできたことは確かなのだけれど、40年前とそのまんま同じ自分が、いまここにいる。今回も時系列で出来事を並べていきます。空白部分は、後追いで埋めていく予定です。SFCSで撮った子どもたちの写真も並べてみます(日付と写真は対応していません)。この子たちも、もう40〜50代のおっさん、おばさんになってるんですね〜。写真を観ると名前が蘇ってくるのが不思議です。
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1月末に引いた風邪が長引き、なかなか仕事に戻れない
せっかく新しい試みをはじめようとしたのに、
それができないもどかしい日が続いている
2月1日(金) santa fe, u.s.a.
2月2日(土) santa fe, u.s.a.
2月3日(日) santa fe, u.s.a.
2月4日(月) santa fe, u.s.a.
2月5日(火) santa fe, u.s.a. the strawberry statement (いちご白書)を読みはじめる
2月6日(水) santa fe, u.s.a.
2月7日(木) santa fe, u.s.a. community meeting
2月8日(金) santa fe, u.s.a.
2月9日(土) santa fe, u.s.a.
2月10日(日) santa fe, u.s.a.
2月11日(月) santa fe, u.s.a.
2月12日(火) santa fe, u.s.a.
2月13日(水) santa fe, u.s.a.
2月14日(木) santa fe, u.s.a.
2月15日(金) santa fe, u.s.a.
2月16日(土) santa fe, u.s.a. スチームバス
2月17日(日) santa fe, u.s.a.
2月18日(月) santa fe, u.s.a.
2月19日(火) santa fe, u.s.a. 料理当番に組み入れられる チキンライスをつくる
2月20日(水) santa fe, u.s.a.
2月21日(木) santa fe, u.s.a.
2月22日(金) santa fe, u.s.a. アルバカーキにstate fairを見に行く 熱気球が大空に浮かぶ
2月23日(土) santa fe, u.s.a.
・Davidに連れられてblack canyonでクロスカントリースキー 初体験
・帰路立ち寄ったハレ・クリシュナ系の人たちがやっている自然食レストランに入ったら、そこで昨秋NYで一緒だったBill C がウエイターとして働いていた。
2月24日(日) santa fe, u.s.a.
2月25日(月) santa fe, u.s.a. central cleaning house
2月26日(火) santa fe u.s.a.
2月27日(水) santa fe, u.s.a. 学生ボランティアはどんどん帰っていく
2月28日(木) santa fe, u.s.a. Charlie Bentleyにインタビュー
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1月末に引いた風邪が長引き、なかなか仕事に戻れない
せっかく新しい試みをはじめようとしたのに、
それができないもどかしい日が続いている
2月1日(金) santa fe, u.s.a.
2月2日(土) santa fe, u.s.a.
2月3日(日) santa fe, u.s.a.
2月4日(月) santa fe, u.s.a.
2月5日(火) santa fe, u.s.a. the strawberry statement (いちご白書)を読みはじめる
2月6日(水) santa fe, u.s.a.
2月7日(木) santa fe, u.s.a. community meeting
2月8日(金) santa fe, u.s.a.
2月9日(土) santa fe, u.s.a.
2月10日(日) santa fe, u.s.a.
2月11日(月) santa fe, u.s.a.
2月12日(火) santa fe, u.s.a.
2月13日(水) santa fe, u.s.a.
2月14日(木) santa fe, u.s.a.
2月16日(土) santa fe, u.s.a. スチームバス
2月17日(日) santa fe, u.s.a.
2月18日(月) santa fe, u.s.a.
2月19日(火) santa fe, u.s.a. 料理当番に組み入れられる チキンライスをつくる
2月20日(水) santa fe, u.s.a.
2月21日(木) santa fe, u.s.a.
2月23日(土) santa fe, u.s.a.
・Davidに連れられてblack canyonでクロスカントリースキー 初体験
・帰路立ち寄ったハレ・クリシュナ系の人たちがやっている自然食レストランに入ったら、そこで昨秋NYで一緒だったBill C がウエイターとして働いていた。
2月24日(日) santa fe, u.s.a.
2月25日(月) santa fe, u.s.a. central cleaning house
2月26日(火) santa fe u.s.a.
2月27日(水) santa fe, u.s.a. 学生ボランティアはどんどん帰っていく
2月28日(木) santa fe, u.s.a. Charlie Bentleyにインタビュー
2014年8月10日日曜日
お疲れさまでした
秋田行の計画が流れてしまったので、
急遽、稽古を入れることにした
やるとすれば「活元運動以前」
あらましを決め大井町稽古場に貼り出した
それが先週日曜日、筆動法の稽古の前のことである
稽古を終え、参加者と駅前でお茶し、電車に乗ったところで携帯電話が鳴った
あれあれと思いながら、折り返しの電話を入れたのは電車を降りてから
ロイ先生の訃報だった
京都に住んでいる頃は阪神愉気法に通ったものだ
本部道場に通い始めたのは、年間初等講座が先だったか、
それとも活元運動研修会だったか
80年代のはじめ、整体の勉強を本格的に始めた頃のことで、
あれからもう30年経ってしまったのだ
「これが鎮心だよ」と掌を触れられ、
拇指が甲側に突き抜けてしまったような感覚に吃驚したのが
ロイ先生に触れられた最初の記憶かもしれない
このような吃驚した経験というのが、存外、勉強を続ける動力になったりする
活元運動をやり込んだ、と自信を持って言えるのは、
活元運動研修会にある期間ずっと出ていたからだし、
その後の、「脱活元運動」の期間を経たあとで、
「活元運動以前」なんて稽古をはじめてしまったのも、同様の理由からだ
一つしか違わないのに、
「おい、そこのボク」と呼ばれたときには、
「なに、この人?」と思ったものだが、
まったく30過ぎたばかりだったのに、えらく、ジジイだった
それともジジイぶってたのか
このように書き始めてしまうと、ぞろぞろといろんなことが甦ってくる
いまとなっては、お疲れさまでした、という言葉しか出てこない
さて、活元運動以前
当日は、台風の影響による豪雨で中止も考えた
意を決して、雨の隙間を縫うようにして大井町にたどり着いたがすでに、ずぶ濡れ
来るか来まいか迷っている人たちには、無理しないでと伝え、
さて誰か現れるかしらと待機
はたして若者二人プラスおじさん一名がやってきた
この稽古、ロイ先生にも結構面白がってもらえるんじゃないか
急遽、稽古を入れることにした
やるとすれば「活元運動以前」
あらましを決め大井町稽古場に貼り出した
それが先週日曜日、筆動法の稽古の前のことである
稽古を終え、参加者と駅前でお茶し、電車に乗ったところで携帯電話が鳴った
あれあれと思いながら、折り返しの電話を入れたのは電車を降りてから
ロイ先生の訃報だった
京都に住んでいる頃は阪神愉気法に通ったものだ
本部道場に通い始めたのは、年間初等講座が先だったか、
それとも活元運動研修会だったか
80年代のはじめ、整体の勉強を本格的に始めた頃のことで、
あれからもう30年経ってしまったのだ
「これが鎮心だよ」と掌を触れられ、
拇指が甲側に突き抜けてしまったような感覚に吃驚したのが
ロイ先生に触れられた最初の記憶かもしれない
このような吃驚した経験というのが、存外、勉強を続ける動力になったりする
活元運動をやり込んだ、と自信を持って言えるのは、
活元運動研修会にある期間ずっと出ていたからだし、
その後の、「脱活元運動」の期間を経たあとで、
「活元運動以前」なんて稽古をはじめてしまったのも、同様の理由からだ
一つしか違わないのに、
「おい、そこのボク」と呼ばれたときには、
「なに、この人?」と思ったものだが、
まったく30過ぎたばかりだったのに、えらく、ジジイだった
それともジジイぶってたのか
このように書き始めてしまうと、ぞろぞろといろんなことが甦ってくる
いまとなっては、お疲れさまでした、という言葉しか出てこない
さて、活元運動以前
当日は、台風の影響による豪雨で中止も考えた
意を決して、雨の隙間を縫うようにして大井町にたどり着いたがすでに、ずぶ濡れ
来るか来まいか迷っている人たちには、無理しないでと伝え、
さて誰か現れるかしらと待機
はたして若者二人プラスおじさん一名がやってきた
この稽古、ロイ先生にも結構面白がってもらえるんじゃないか
と思うのだが、どうだっただろう
2014年8月5日火曜日
茶碗が届いた!
片桐庸子さんから茶碗が届いた!
持ち運びできる小振りのものをとお願いしていたいたのだが、
ちょうどぴったりサイズ
色合いも赤の上に緑がかかった微妙なもの
80歳になっても陶芸家は進化を続けるらしい
これまで愛用していた庸子さん作の赤茶碗
去年、一緒に、ドイツ、フランス、ブラジルと渡り歩き、
最後はお世話になったおウチに預けて帰ってきた
いまでも、ブラジルで大事に使われているはず
長年使ってきたものだったので、
手ぶらで帰ってきたら、ちょっと寂しい
思わず庸子さんに電話して新作をお願いした
それが今年のはじめ
2代目として大切に使わせていただきます
1974年1月 Santa Fe
最近読んだ、『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫著 集英社新書)のなかに、「資本主義の終わりの始まりは1974年に(まさにこの日本で)始まった」という一節に行き当たった。「おお、時代的にも1974年は特異点だったのだ」と独り合点。さっそく稽古場でこの「1974年」を話題にしたら、その場に居た半数は、なんとまだこの世に生まれていなかった。1974年は、すでに歴史の一部なのです。
さて、1974年を私はサンタフェという米国ニューメキシコ州の田舎町で迎えた。サンタフェの部分については、すでに書いたものがあるので(⇒SFCS1974)、この部分に深入りするのは後回しにします。FWCに提出したレポートをスキャンしたものがあるので、(FWC journal 1974)興味のあるかたはリクエストしてください。ここでは、ひたすら時系列的に出来事を並べ、訪ねたところなどには、wiki等のリンクを貼っていくことにします。
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1974
1月1日(火)santa fe , u.s.a.
・今日が正月とはとても信じられない
・日本のお正月が恋しい
・電気なし、セントラルヒーティングなしの原始生活
1月2日(水)santa fe, u.s.a.
・朝起きると雪が30センチ位積もっている
1月3日(木)santa fe, u.s.a. サンタフェ銀行で口座を開く
1月4日(金)santa fe, u.s.a. 寒い! 今朝の気温マイナス16°F(-27°C)
1月5日(土) santa fe, u.s.a. 年が明けて一度もコーヒーを飲んでいない
1月6日(日) santa fe, u.s.a. DaytimeSavingtimeを使っているせいで、時間の感覚がわからない(石油危機のため、この年、冬にもかかわらず「夏時間」が適用され、時計の針が一時間進められた)
1月7日(月) santa fe, u.s.a. サンタフェコミュニティスクール新学期
1月8日(火) santa fe, u.s.a.
・PIT-HOUSEで寝る
・近々、ここに移ることになる
・public welfare office foodstamp 申請
【pit-house内部】
1月9日(水) santa fe, u.s.a. 大阪の叔父から手紙が届く
1月10日(木) santa fe, u.s.a.
1月11日(金) santa fe, u.s.a.
・子どもたちに理科を教えることにする。
・institute of american arts museumを訪ねる
1月12日(土) santa fe, u.s.a.
1月13日(日) santa fe, u.s.a.
1月14日(月) santa fe, u.s.a.
・food coop 主催のパーティ参加
・public welfare office 面接
1月15日(火) santa fe, u.s.a. public welfare officeで面接 foodstampを4月まで貰えることになる
1月16日(水) santa fe, u.s.a.
・Davidの夕食準備補助 Eggplant Parmesan。美味い
・villanueva state park へフィールドトリップ
1月17日(木) santa fe, u.s.a. community meeting
1月18日(金) santa fe, u.s.a.
1月19日(土) santa fe, u.s.a.
1月20日(日) santa fe, u.s.a.
1月21日(月) santa fe, u.s.a.
1月22日(火) santa fe, u.s.a.
1月23日(水) santa fe, u.s.a.
・実家から手紙が届く
・nambe indian pueblo へフィールドトリップ
1月24日(木) santa fe, u.s.a.
1月25日(金) santa fe, u.s.a.
1月26日(土) santa fe, u.s.a. ひどい風邪ひき 喉が痛い
1月27日(日) santa fe, u.s.a.
1月28日(月) santa fe, u.s.a. ようやく熱も下がってきた
1月29日(火) santa fe, u.s.a.
1月30日(水) santa fe, u.s.a.
1月31日(木) santa fe, u.s.a.
さて、1974年を私はサンタフェという米国ニューメキシコ州の田舎町で迎えた。サンタフェの部分については、すでに書いたものがあるので(⇒SFCS1974)、この部分に深入りするのは後回しにします。FWCに提出したレポートをスキャンしたものがあるので、(FWC journal 1974)興味のあるかたはリクエストしてください。ここでは、ひたすら時系列的に出来事を並べ、訪ねたところなどには、wiki等のリンクを貼っていくことにします。
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1974
1月1日(火)santa fe , u.s.a.
・今日が正月とはとても信じられない
・日本のお正月が恋しい
・電気なし、セントラルヒーティングなしの原始生活
1月2日(水)santa fe, u.s.a.
・朝起きると雪が30センチ位積もっている
1月3日(木)santa fe, u.s.a. サンタフェ銀行で口座を開く
1月4日(金)santa fe, u.s.a. 寒い! 今朝の気温マイナス16°F(-27°C)
1月5日(土) santa fe, u.s.a. 年が明けて一度もコーヒーを飲んでいない
1月6日(日) santa fe, u.s.a. DaytimeSavingtimeを使っているせいで、時間の感覚がわからない(石油危機のため、この年、冬にもかかわらず「夏時間」が適用され、時計の針が一時間進められた)
1月7日(月) santa fe, u.s.a. サンタフェコミュニティスクール新学期
1月8日(火) santa fe, u.s.a.
・PIT-HOUSEで寝る
・近々、ここに移ることになる
・public welfare office foodstamp 申請
【pit-house内部】
1月9日(水) santa fe, u.s.a. 大阪の叔父から手紙が届く
1月10日(木) santa fe, u.s.a.
1月11日(金) santa fe, u.s.a.
・子どもたちに理科を教えることにする。
・institute of american arts museumを訪ねる
1月12日(土) santa fe, u.s.a.
1月13日(日) santa fe, u.s.a.
1月14日(月) santa fe, u.s.a.
・food coop 主催のパーティ参加
・public welfare office 面接
1月15日(火) santa fe, u.s.a. public welfare officeで面接 foodstampを4月まで貰えることになる
1月16日(水) santa fe, u.s.a.
・Davidの夕食準備補助 Eggplant Parmesan。美味い
・villanueva state park へフィールドトリップ
1月17日(木) santa fe, u.s.a. community meeting
1月18日(金) santa fe, u.s.a.
1月19日(土) santa fe, u.s.a.
1月20日(日) santa fe, u.s.a.
1月21日(月) santa fe, u.s.a.
1月22日(火) santa fe, u.s.a.
1月23日(水) santa fe, u.s.a.
・実家から手紙が届く
・nambe indian pueblo へフィールドトリップ
1月24日(木) santa fe, u.s.a.
1月25日(金) santa fe, u.s.a.
1月26日(土) santa fe, u.s.a. ひどい風邪ひき 喉が痛い
1月27日(日) santa fe, u.s.a.
1月28日(月) santa fe, u.s.a. ようやく熱も下がってきた
1月29日(火) santa fe, u.s.a.
1月30日(水) santa fe, u.s.a.
1月31日(木) santa fe, u.s.a.
1974-1 why 1974?
I recently read a book called "The demise of capitalism and the crisis of history" written by Kazuo Mizuno, Japanese economic historian. It was very exciting book and I was fascinated with the paragraph saying that "end of capitalism begun in 1974". Wow, I was just trying to write about the year 1974.
1974 was a special year for myself. I started the year in Santa Fe, New Mexico, and ended in Kerala, India. This is the only year I spent 365 days outside Japan. But I do not quite remember how I have spent the year, where I visited, whom I met, and so on. This is an attempt to gather my scattered memories by going through my notebooks. Remember, in 1974, we did not have internet and main means of communication were postal mail and telephone.
Where were you in 1974?
自分の日記、ノートの類いを読み返すなんてことは、ほとんどない
このままのかたちで残しておいてもゴミになるだけである
さてどうする?
古いノートをどんどんスキャン
その後、シュレッダーにかけてたのち、捨ててしまうことにした
手許に1970年から2013年までの電子化されたノートが残った
さて、1974年はどんな年であったのか?
ウィキペディアで1974年という項目を観ると、次のような事件が並んでいる
これらを一覧してもピンとこないが(なんせ、僕自身日本国内で起こったことはリアルタイムで経験していない)、前年1973年に勃発したオイルショックの余波が続き、トイレットペーパーが払底し、消費者物価が一年で23%上がった年として記憶されているはずだ
この 年の自分の足取りを再構築してみようと思う
インターネットはまだなく、郵便、電話が主たる通信手段だった時代の話である
1974 was a special year for myself. I started the year in Santa Fe, New Mexico, and ended in Kerala, India. This is the only year I spent 365 days outside Japan. But I do not quite remember how I have spent the year, where I visited, whom I met, and so on. This is an attempt to gather my scattered memories by going through my notebooks. Remember, in 1974, we did not have internet and main means of communication were postal mail and telephone.
Where were you in 1974?
自分の日記、ノートの類いを読み返すなんてことは、ほとんどない
このままのかたちで残しておいてもゴミになるだけである
さてどうする?
古いノートをどんどんスキャン
その後、シュレッダーにかけてたのち、捨ててしまうことにした
手許に1970年から2013年までの電子化されたノートが残った
さて、1974年はどんな年であったのか?
ウィキペディアで1974年という項目を観ると、次のような事件が並んでいる
これらを一覧してもピンとこないが(なんせ、僕自身日本国内で起こったことはリアルタイムで経験していない)、前年1973年に勃発したオイルショックの余波が続き、トイレットペーパーが払底し、消費者物価が一年で23%上がった年として記憶されているはずだ
- January 6 – In response to the energy crisis, Daylight Saving Time commences nearly 4 months early in the United States.
- February 4 - Newspaper heiress Patricia Hearst is kidnapped from her Berkeley, California apartment by members of the Symbionese Liberation Army.
- March 18 – Oil embargo crisis: Most OPEC nations end a 5-month oil embargo against the United States, Europe and Japan.
- April 8 – Hank Aaron of the Atlanta Braves breaks Babe Ruth's home run record, by hitting his 715th career home run off Los Angeles Dodgerspitcher Al Downing at Atlanta-Fulton County Stadium.
- May 18 - Nuclear test: Under Project Smiling Buddha, India successfully detonates its first nuclear weapon, becoming the 6th nation to do so.
- August 8 – Watergate scandal: U.S. President Richard Nixon announces his resignation (effective August 9).
- September 13 – Japanese Red Army members seize the French Embassy in The Hague, Netherlands.
- November 22 – The United Nations General Assembly grants the Palestine Liberation Organization observer status.
この 年の自分の足取りを再構築してみようと思う
インターネットはまだなく、郵便、電話が主たる通信手段だった時代の話である
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