2023年12月30日土曜日
12月の読書
2023年12月28日木曜日
発熱とメタモルフォーゼ
2023年12月26日火曜日
聞き書き
2023年12月23日土曜日
2023年12月22日金曜日
トマス・チャーリー・蘭杖 薩摩琵琶演奏会
会場 西陣の町家 古武 京都市上京区大宮通五辻上ル
駐車場・駐輪場はありません 路上駐輪も禁止です。
会費 2000円
定員 20名 (10/3 定員に達しました。以後、キャンセル待ちとなります。)
予約 等持院稽古場・角南(スナミ)まで
075-465-3138
Thomas Charles Marshall is from Westmeath in Ireland. He is Director of Music and Organist at St Ann's Church Dawson St, Dublin. He lived in Japan from 1994 to 2008 during which time he studied Seiha Satsumabiwa with Yoshinori Fumon (1911-2003), receiving the title Ranjo.
2023年12月15日金曜日
スマホは必要か?
2023年12月14日木曜日
洛句
2023年12月12日火曜日
2023年12月7日木曜日
未来に視点を置く
11月丸一か月低潮期が続いた。全てにおいてスローペース。いくらでも眠れる。なにもしなくとも満足。月末三日間の稽古会が終わって、ようやく動く気分になって来た。この風邪はいったい何だったのかと振り返ると、ここまでは60代の延長で生きてきたのだということに気づく。先の予定を考えることが苦痛で仕方なかった理由もここにあった。この大風邪が区切りとなり、ようやく70代の体になったということなのか。
60代、つまり過去に置かれていた視点が、たとえば5年後に置かれ、そこから今を見るということがやっとできるようになった。5年後も僕は生きていそうだ。つまり、この仕事を続けている。であるならば、今をどのように過ごすべきかも自ずと見えてこようというものだ。新しい5年卓上日記も買った。
2023年11月30日木曜日
迷う
2023年11月29日水曜日
靴が消えた
2023年11月28日火曜日
11月の読書
等持院 の山門の内側で暮らしているのに、足利尊氏 について知っていることは少ない。権力闘争というと、皆、野心をギラギラ燃やしながら争っている印象があるけれど、たしかに尊氏のように、立場上、仕方なく、イヤイヤ関わっていた人物がいたとしても不思議ではない。物語りは尊氏と弟の直義(なおよし)、そして執事である高師直(こう もろなお)の三人を軸に進んでいく。2段組500頁長編をだれることなく書き切った垣根涼介 の体の体力は見事。ぼちぼち紅葉の季節だし、一度、等持院のお庭観にいってこようかな。
2023年11月16日木曜日
新聞
2023年11月15日水曜日
発熱
2023年10月30日月曜日
10月の読書
2023年10月15日日曜日
コモンズ(蔵出し)
2023年10月11日水曜日
十三仏行
連句仲間三人でメールでの文音を巻いていたのだが、最後の挙句の番が回ってきたところで片桐ユズルさんの訃報が届いた。ただし、葬儀は家族葬でやるので他言無用と釘を刺されている。一緒に文音をやっている二人も濃淡あるがそれぞれにユズルさんとは面識があるだけに、ちょっと後ろめたい。
挙句前の句三つの中から
園児らの歌ごゑ響く花の窓
という句を選びーユズルさん、歌うの好きだったしーこれにつづく挙句案三句を提出した。
そよ風に乗り風船の往く
旅立ちの日は春コート着て
卒業写真校門を背に
結果、最初の句が挙句に採られ、この文音「石の道しるべ」は無事満尾。
ハジメさんによれば、最後ユズルさん、「急にイタリアに行くことになった」と話していたそうです。イタリアか〜。
片桐ユズル、享年92歳 2023年10月6日没
ブレンド
数年来、コーヒー豆といえば、そのお店でしか買ってこなかったのだが、改めて探してみると、京都という街には、焙煎して豆を売っている店が沢山ある。喫茶店、カフェの密度は相当なものだが、焙煎屋の密度もすこぶる高く、共倒れにならないのかしらと心配するほどである。京都人、そんなにコーヒー飲むのか。
先日、大阪にお墓参りにいったついでに、大正時代から続いているという焙煎屋を覗いてみた。そのお店のウリは、いわゆる産地毎のスペシャリティーコーヒーではなく、ブレンド。ふーんと思いながら、その店の看板商品500グラム2800円のものを買ってきて飲んでみたら美味しい。何度飲んでも美味しい。毎日飲んでも飽きない。半月ほどでなくなってしまった。
ブレンド、奥が深いぞ。ここからブレンド行脚が始まった。あっちの店で100グラム、こっちの店で100グラムといった調子で、いろんなお店のブレンド豆を試している。ブレンドというと、比較的単価が安いので、安い豆を適当に混ぜてんちゃうかと偏見の目で見ていたのだが、ちがった。失礼しました。反省してます。淹れたコーヒーで、店主の顔が思い浮かぶほど、作家性が強いものだった。
喫茶店巡りはともかく、焙煎屋巡りはしばらく続きそうだ。
2023年9月27日水曜日
9月の読書
E.P.Menon氏は僕が初めてインドに行った1974年、僕が参加したプログラムのディレクター。ニューデリーでオリエンテーションを始め、アグラ、ウダイプールで終了。そういえば、当時の首相、インディラ・ガンディーとの面会もセットアップしてくれてたのを半世紀を経て思い出した。
プログラムの事務所はバンガロールにあった。そこを拠点に学生たちはインド各地で個々のプロジェクト(今風にいえばインターン?)に入っていくから、ディレクターと過ごす時間はそう長くない。それでも、巡礼ーpeace walkと呼んでいたと思うーの話は折にふれ聞いていたように思う。
その後、十年くらいは行き来があったような。そうだ、亀岡の花火大会に一緒に行った記憶がある。
2023年9月1日金曜日
9月1日
2023年8月30日水曜日
2023年8月14日月曜日
2023年8月3日木曜日
半世紀 7 何でも見てやろう
2023年8月2日水曜日
半世紀 6 「小さき者たちの」
2023年7月30日日曜日
7月の読書
2023年7月25日火曜日
朝風呂のすすめ
2023年7月24日月曜日
同調
十年以上前のこと、いやもう少し前のことかもしれない。風狂知音のライブを横浜関内のエアジンに聴きにいった。ぼくがまだ事務局の仕事と大井町稽古場での稽古担当という二足のわらじを履いて大車輪で活動していた頃のことである。風狂知音は、覚張幸子(vocal)、田村博(piano)、津村和彦(guitar)の三人のジャズユニット。この人たちの作り出す音楽を通して、音楽とは聴くものではなく「体験」するものであるということを学んだのだけれど、その日のライブは格別で、もう、自分の体がバラバラにばらけてしまうという驚愕の経験をした。風狂知音の音楽には、稽古のエッセンスが覚張さんを通して注入されているので、翌日、裕之先生に、「こんな経験をしたのだけれど、これは整体で可能なのか?」と問いにいったことを覚えている。無論、返事は「そうだよ」というもの。それからしばらくして、僕は二足のわらじを脱ぐという一大決心をするのだけれど、このときの、風狂知音の音楽との出会いがひとつの契機であったことは、ぼくのなかでしっかりと記憶されている。数年前、津村さんが逝き、二人組みになってしまったけれど、風狂知音の活動は続いている。(2020/3/1)
2023年7月21日金曜日
地底旅行
生涯読んだ本の中で10冊を挙げろと言われたら、まず最初にジュールベルヌの地底旅行を挙げるだろう。小学生の頃読んだ本だが、ここから、僕の冒険心に火がつき、「コンチキ号漂流記」へと雪崩れ込んでいく。小学生になった孫にも読ませてみようと、どんな版があるのか図書館の児童書の棚を物色してみた。岩波少年文庫に収められているのだが、どうみても小学校高学年向け。僕自身が小学生の時の読んだのは、子供向けに編集された図絵満載のもので、ちゃんと原作を読んだわけではない。
この岩波少年文庫版の地底旅行、夏の課題図書として読んでみることにした。まず、その分量に驚いた。400頁を超えている。探検をはじめるまでの話の部分がなかなか長く、ようやく160頁に辿り着いたところで地底に入っていくのだ。アイスランドの火山口から地底に入り、イタリアの火山口から地上に戻ってくるというストーリーは記憶している。僕が幼少期に読んだものも、基本的なところは、ちゃんと押さえたものであったらしい。ただ、イタリアの火山の名前をエトナ山と記憶していたのだが、原作によるとストロンボリであった。
2023年7月14日金曜日
古道具
2023年7月2日日曜日
糀ブーム
2023年6月28日水曜日
2023年6月27日火曜日
6月の読書
オーラル派 秋山基夫 私家版 2023
歴史の屑拾い 藤原辰史 講談社 2022
原発とジャングル 渡辺京二 晶文社 2018
2023年6月23日金曜日
稽古着生活
2023年5月24日水曜日
5月の読書
2023年5月2日火曜日
150歳
遍路2023 その4
2023年4月30日日曜日
2023年4月21日金曜日
証し
2023年4月10日月曜日
出石に蕎麦を食べにいく
2023年3月30日木曜日
3月の読書
2023年3月23日木曜日
遍路2023 その3
2023年3月22日水曜日
遍路2023 その2
遍路2023 その1
2023年3月13日月曜日
半世紀 5
世界を知るにはふれることからはじめなければならない。自と他の境界線上に感覚という経験が生まれる。その感覚経験が身体によって消化・同化されて、はじめて身に付くことになる。これを「身体化」と呼ぶ。
ところが、人は文字通り人それぞれであり、同じ時間、同じ場所にいたところで、ひとりひとり「感受性の方向」が違う故に、体験の質はそれぞれ異なったものになる。消化された食べものが人の体をつくっていくように、同化された経験が、その人の体をつくっていく。つまり身体化のプロセスにおいて、そこには必ず他者の存在があり、また、体験を受け止める一人ひとり異なった感受性がある。よって、身体ははじめから個性的である。
人が他者にふれると、そこで感覚経験が生まれる。では、人はどのように他者にふれればよいのだろう。相手を操作しようとふれる者がいる。相手と同調しようとふれる者がいる。では、同調的にふれようと意図して、実際に相手にふれたとき、そこに同調は生まれるであろうか?
困ったことに、自動的に同調は生まれない。なぜなら、まず、ひとりひとり異なった身体を有しているからである。次に、ふれるための手は、操作することが習慣化されているからである。同調なき接触は、たとえ本意ではなかったとしても操作的にならざるをえない。人間関係の困難は、この齟齬から発生するといってもよい。
人と人が(モノであっても同様)、どのように同調的な関係を切り結べるのか、人は体験というものをどのように同化・身体化していくのか。整体の知見をベースに、このような研究を身体教育研究所では行っています。また、すべて稽古という、実際に体で経験する会として提示しています。